
◇ 「荒地」研究
>> 北村太郎の詩制作姿勢としての「中庸」と一九七〇年代の「中道」思想
「荒地」同人の中で、もっとも詩集の刊行が遅かった北村太郎は初期には寡作な詩人として知られていた。しかしながら、一九七六年の詩集『眠りの祈り』から突如として年一冊のハイペースで詩集の刊行をはじめる。その数年前、六〇年代末から七〇年代の初頭においては北村が第二詩集『冬の当直』で試みたように詩制作における実験的手法は多く用いられ、また詩壇は活況を呈していた。詩に限らず風俗・音楽・芸術・思想などあらゆる分野において過激で実験的であること(それはまた非常に観念的であることでもあった)が主流であった。けれどもそれは同時に現代詩のその後に来る衰退の萌芽をも含んだ狂騒的状態にすぎなかった。Copyright(c)2005-2012 ccoe@mac.com Allrights reserved.
北村が突如として旺盛な詩制作活動をはじめた七〇年代周辺の詩の状況は、「いくつかの要素についての過剰さと縮小傾向の度合」という尺度を導入することで簡略な説明が可能である。例えばレトリックについて六〇年代末では、それを限りなく過剰にしていった。七〇年代以降も同様にレトリックについてはそのまま過剰へと向かいつつ、「コトバが個人にとって持つ意味」という別要素について、限りなく縮小していくという変容があったのである。六〇年代末においては当然これについても過剰さが求められていた。こうした、特定の要素を詩を成り立たせる根源要素とみなして「極端化を押し進めること=詩を極めること」という単純な構図に基づいた行いの果てに詩がかえって無意味化していったのである。この時代の極端であり過激な詩法といったものの背景には実は詩法においての「一般化=普遍化=大衆化」という思想があり、それが正しいものであるということが無批判なかたちで受容されてしまっている点についての考察の欠如があった。
北村太郎の場合は、「ぼくはいつまでたっても/中庸である/中庸っていちばん気ちがいじみている状態だ」という「僕の天文学」といった詩などに端的にあらわれているように「過激」や「革新」という思想に対してはかえって「保守」であり「中庸」である自分という立場をとろうとしていた。この「中」的思想を詩の中で展開するという、他とは一線を画す姿勢によって自身の詩の衰退を免れていたのである。この思想を北村はパスカル『パンセ』の「無限に対しては極小、極小に対しては無限である中間者としての人間」というものから得ていた。それを「極端ではない(過剰でも過小でもない)ところに存在する詩」という詩の「中」的思想へと読みかえていたのである。