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December 2011

December 30 Friday 2011

『ハート・ロッカー』主人公の階級は?

今更ですが、ものすごくいいかげんに映画『ハート・ロッカー』を眺めました。つい最近の映画のような気がしていましたが、これって2008年の映画なんですね。気づかない間にずいぶん月日がたってしまったものです。

・・・いやいや日本公開は2010年ですね。そりゃそうか。いくらなんでもおかしいと思った(汗)。

で、感想はといいますと...批評だなんだという高尚(?)な話以前のレベルでよくわからなかった点が色々とあって、そこをまずなんとかしないといけません。たとえば主人公「ウィリアム・ジェームズ」の階級がよくわかりません。ググれば簡単にわかるかと思ったら諸説あるようなんですよ。奇妙な話ですが。

一番多いのは「二等軍曹」説です。たとえば下記のような。「映画批評家」と経歴にありますので専門家が書いた内容のようです。

>> 山口拓朗オフィシャルサイト

2004年の夏、イラクに駐屯する米陸軍ブラボー中隊に、ジェームズ二等軍曹(ジェレミー・レナー)という新たなリーダーが赴任してきた。彼らの任務は爆発物処理。ジェームズはサンボーン軍曹(アンソニー・マッキー)とエルドリッジ技術兵(ブライアン・ジェラティ)とチームを組んで動くが、チームワークを重視するサンボーンとエルドリッジに対して、ジェームズはセオリー無視のスタンドプレーを連発する。次々と難局を乗り切っていく3人だったが……。

次に多いのが「一等軍曹」説です。引用は「古今東西あらゆるメディアに登場した銃火器データベース」をうたうサイトの関連項目から。

>> Media Gun Database

イラク戦争後のイラク国内。頻発する過激派による爆弾テロ。その爆発物処理を担当するイラク駐在米陸軍のブラボー中隊の任期終了まで38日に迫っていた。その中のマット・トンプソン二等軍曹(ガイ・ピアース)、J・T・サンボーン三等軍曹(アンソニー・マッキー) 、オーウェン・エルドリッジ特技兵(ブライアン・ジェラティ)の三人で構成される処理チームはある爆発物処理においてテロリストの罠にかかり、トンプソン軍曹が命を落とし、後任としてウィリアム・ジェームズ一等軍曹(ジェレミー・レナー)が赴任する。手順を無視して危険を冒しながらの処理を行うジェームズのやり方にサンボーンとエルドリッジは振り回されながらも三人は任期終了まで爆発物処理を行っていくが…。

あとは少なそうかと思ったけれど探してみると意外とあった「二等兵」説です。これも書き手は鈴木純一さんというプロの方で、日本映像翻訳アカデミーというところのサイトにあるコラムみたいです。

>> 戦え!シネマッハ!!!!

2004年のバクダッド。アメリカ軍の爆弾処理班に、873個の爆弾を処理した経験を持つジェームズ二等兵(ジェレミー・レナー)が赴任してくる。さっそく爆弾処理の任務を開始するジェームズ。複数の爆弾に囲まれて思わずつぶやく。

他にも探せばまだ色々な説があるのかもしれません(笑?)。しかしこれでは埒があかないので公式サイトをチェックしてみます。

>> 『ハート・ロッカー』公式サイト

>>

「二等軍曹」ってしっかり書いてありますね。と、いうことは「二等軍曹」で決まりか...。一応念のために本国の公式サイトも見ておきます。

>> The Hurt Locker Official Movie Website

>>

こちらも「Staff Sergeant」って書いてありますね。「Staff Sergeant」は通常「二等軍曹」と訳されます。公式サイトに書いてあるんだからこれはもう決まりか...とは思うのですが、信憑性があろうとなかろうとこういうのは結局「だれだれが言ってた」レベルの話であって「確証」にはなりません。映画内でそれに言及していたり示しているものを発見できないと決定とはいえないのです。

それと英語版Wikipediaや英語の映画情報データベースサイトなどでは「Sergeant First Class(一等軍曹)」と一貫して表記されているのも気になります。

そこで、さてどうしたものかと貧弱な軍関係脳内データベースを突っつき回してみると「米陸軍は野球帽でいえば球団マークが入っているあたりに階級章がついた帽子を被るはず」というのを思い出しました。ぼんやりした映画の記憶をたどってみると確かDVDを売ってるイラクの子どもとサッカーボールで遊ぶシーンでは帽子を被っていたような...。

と、いうわけで検索語に「サッカー」を入れてググったところイイカンジに階級章が映っている画像が見つかりました。

>>

濃い色の山形の線が上に3本。そして下方向に膨らんだ線が2本。これはどうみても「一等軍曹」の階級章です。いったいぜんたいどうなってるのか?すっかりわけがわかりません。

>> 米軍階級章

上は米軍階級章についてのリンクです。御参考まで。

以下にとりあえずまとめてみます。

ここまでの調査(?)結果から推察すると「二等軍曹」と書いてる人達は公式サイトの情報を参照した人なんだろうな、ということがいえそうです。「二等兵」と書いちゃった人達は「二等軍曹」という聞き慣れない語を(脳内補正で?)聞き覚えがあって同じく「二等」で始まる軍関係のことばである「二等兵」に変換してしまったんじゃないでしょうか。たぶん語学とかは得意でも軍関係の知識が著しく欠落しておられるとかとか。反対に「一等軍曹」と書いた人達は、実際に映画の中で目にする階級章が「一等軍曹」のものと一目でわかるほど軍関係の知識が豊富な方々なんじゃないかと思えます。

結論としては、映画内でそういう階級章をつけているのだから主人公ジェームズの階級は「一等軍曹」だ、というので良いのだと思います。日米双方の公式サイトが間違いを掲載していると断じざるを得ないという不可思議な現象がおきているのがひっかかりますが...。

班と中隊

さて、主人公ジェームズとその仲間たちは「elite Explosive Ordnance Disposal squad」というユニットを形成していて、いつも一緒です。elite のニュアンスをどう捉えればいいのかよくわかりませんが、残りは「爆発物処理班」でいいですよね。「爆弾」あるいは「爆発兵器」かもしれないですけど。いずれにせよ彼等は三人しかいませんし「squad(班)」なわけです。

ところで映画の画面には時折「ブラボー中隊の任務終了まであと何日」みたいな字幕が出ます。ジェームズの階級についてググっていたときに、この「ブラボー中隊」と主人公ら3人の「爆発物処理班」の関係を誤解している人がものすごくたくさんいることにも気づきました。あまりにもたくさんいることと文面がほとんど同じこと、それが「あらすじ」の中に書き込まれていること等々から「アヤシイ...」と思って日本版公式サイトで確認してみると、やはりその発生源がありました。

>>

「新しい中隊のリーダーに就任したウィリアム・ジェームズ二等軍曹」と書いてあります。これによって軍関係知識の無い人達が誤解して「爆破物処理班」=「ブラボー中隊」と思ってしまったようです。「新しく中隊の爆破物処理班リーダーに就任した...」なら意味は通りますが、そういう書き方にはなっていません。

>> 日本陸軍階級章

上記リンクは帝国陸軍の階級章についてのものですが隊の構成についても書いてくれています。もちろん現代の米国陸軍とは違いますが、大凡の見当はつくのではないかと。イメージしやすい例でものすごく大雑把にいえば小学校の1学級が1小隊です。1中隊は4学級から構成されますので1学年の半分くらいの人員ですね。なので僅か3名の「班」を「ブラボー中隊」なんて絶対に呼ばないんですよ。それに等級がどうでも軍曹のような下士官が通常の任務の中で中隊を指揮することもあり得ません。

A company is a military unit, typically consisting of 80-225 soldiers and usually commanded by a Captain, Major or Commandant. Most companies are formed of three to five platoons although the exact number may vary by country, unit type, and structure. Several companies are grouped to form a battalion or regiment, the latter of which is sometimes formed by several battalions.

一応 Wikipedia の company(=中隊)のところから引用しておきます。platoon は小隊、battalion は大隊、regiment は連隊のことです。何やら通常は中隊を大尉や少佐クラスのひとたちが指揮するみたいに書いてありますね。帝国陸軍では中尉が指揮しますが、あれは一般的ではなかったのか...。

あと米軍の「ブラボー」は「B」の意味で、要するに「第二中隊」といっているだけです。どこぞの連隊が全体としてどういうローテーションを組んでイラクに派遣する中隊を決めているのかは映画だけからはわかりませんが、とりあえず部分的には1年毎に前から順に交代しながら駐屯しているルーティンがあるらしいことはわかります。なのでブラボー中隊が任務終了で帰還したあとには代わりにチャーリー中隊(C中隊、第三中隊)が来ていたのでしょう。それから更に1年たってジェームズはデルタ中隊(D中隊、第四中隊)所属としてまたイラクに来るわけです。

それにしても軍隊についてあまりにも常識を欠いたまま(←私自身だってほとんど何も知らないレベルですから、それ以下というのは本当に全く何も知らないということです)この映画について堂々と意見を述べ、解説を書き、評価を下している人を多数見かけるのは気持ちのいいものではありません。たとえば企業内の人間関係を描いた映画を見て課長と係長の身分関係がどうなっているのかとか、秘書や受付がどんな仕事をしているか程度の知識すらなくて批評するなんてことは考えられませんよね?

革新的で常識破りな行動をとり成果をあげるAという人物に対してBという人物が態度を改めるように求めている場面があったとします。このときAとBのどちらが上役か(あるいはそもそも上下関係にない等々)によって、それら人物をどう評価すべきかは当然変わってくるはずです。

軍曹=三等軍曹

主人公ジェームズ一等軍曹(←たぶん:笑)はサンボーン軍曹よりも階級が上です。二等軍曹だったとしても軍曹より上の階級です。これは何も知らないで公式サイトを見た人だと勘違いするかもしれませんが、米陸軍の無印「Sergeant(軍曹)」は実は三等軍曹のことなんです。

ですが私がこの映画をぼんやり眺めていた印象ですとサンボーン軍曹の方が少なくとも階級は上なのかと思える態度でした。特殊能力をもつ異能者である(それゆえ爆発物処理作業ではリーダーである)ことに遠慮して、下っ端のくせに指示を無視して勝手なことをやるジェームズに対して強く出ることができず苦悩していたが、ついに堪えきれずぶん殴った(←私の見間違いでなければ殴りましたよね?ヘッドセットをはずして通信を無視したとかの理由で?)ように見えたんです。つまり、有能で成果はあげていても縦社会である軍の秩序を乱しているクソ野郎を看過できずに制裁したのかな?と思ったのです。ジェームズはそれを黙って受け入れていましたし。

しかし階級もジェームズの方が上であるなら、この場面の解釈も全く変わってきます。サンボーンは作戦行動中に上官をぶん殴ったわけですよね?なんで処罰されないのかわかりません(←そもそもサンボーンがあんまり「逃げたい逃げたい」連呼でウゼエからヘッドセットを捨てたんだし軍法会議なら絶対勝てると思うけど)。この行為を黙って許すジェームズはものすごく型破りな(軍隊の秩序的には問題だが)寛容な人物ということになります。逆にサンボーンは(爆発物の処理に関して)無能な上に、上官に対して反抗的で頑な不良軍人であるということになります。護衛任務にしたって彼がもっと柔軟で優秀なら前任者は死なずに済んだわけですから、そういう意味でも彼の頑なさや融通の利かなさは非常に有害です。

またエルドリッジ技術兵も(単にオロオロ&オドオドしててウザいという以上に)相当問題のある軍人です。彼の階級は「Specialist」で伍長相当のようですがこれは軍曹よりも更に一階級下ですから、当然ジェームズの方が階級が上です。一等軍曹の方が3階級上という事です。その上官相手に彼は公然と罵声を浴びせていましたよね?負傷してヘリで搬送されるときに、他の兵士も目撃している前で。会社組織の上下関係でもどうかと思うのに軍隊でこんなことをして許されるものなんでしょうか。

ネット上で色々と見かけた『ハート・ロッカー』評の大部分は(少なくとも前半での)ジェームズが身勝手で頭のおかしい人物で、それに振り回されて困惑する常識あるサンボーン&エルドリッジという構図と受け止めたようですが、それはちょっと違うのかもしれません。

むしろジェームズ一等軍曹は危険極まりない爆弾処理という非常に難しい任務を、使い物にならない反抗的な不良軍人である部下二名を持つ中間管理職として彼等ポンコツどもの処理もしつつ、成し遂げていたということなんじゃないでしょうか。物語の進行につれ、なんとかしようという範囲が、自分の仕事→自分の仕事と部下→自分の仕事と部下とイラクの人達...と拡大していって自身の能力容量越えてしまったようにも見えます。

ラリってんじゃなくてクルってる

この映画『ハート・ロッカー』の、特にラストシーンの解釈を巡っては映画評論家の町山智浩さんとライムスター宇多丸さんとの間で論争がありました。

>> しかし反撃もそこまで

上記リンク先でポッドキャストや町山氏の発言を集めたtogetterへのリンクがまとめられています。また問題となってるラストは某動画サイトにありましたので一応参照のために引用しておきます。

>> エンディング

ポッドキャストを聞き返さずに記憶で書いているので間違っているかもしれません(以下、両氏の考えを私なりに理解した内容をカギカッコで示しますが、これらはあくまで私の意訳であって彼等がどこかで一字一句カギカッコ内の内容と同じ発言をしたわけではありません)が、確か宇多丸氏はこれを「戦争中毒で社会不適応となった主人公が普通の生活ができず疎外感を感じてまた戦場に戻って来ざるを得なくなったシーン」と解釈していたはずです。同種のテーマや内容や構成を持つ過去作品の系列にこの映画を加え、そう捉えたときに不足している点(帰国しても普通の社会に馴染めなかったということがわかる描写が足りない云々)なども指摘してダメ出ししていました。

これに対して町山氏は「戦争中毒などからは醒めている主人公が、何もかもうまくいかず打ち拉がれて去らねばならなかった場所に、再び挑む決意を固めた姿が映し出されたシーン」だというようなことを言っていたかと思います。映画の中盤くらいからイラクの普通の人達に目を向け始めた主人公は確かになんだかわからない衝動のようなものに駆られる感じで(勝手に基地を抜け出してみたり)色々と奇妙な試みを始めます。町山氏はこれを「スリルや刺激の中に万能感や充実感を求める行為から脱して、それまで見ない様にしていたイラクの惨状に正面から向き合って不器用ながらもそれをなんとかしようとあがいている姿」と捉えたようです。

そして宇多丸氏が主張するような過去映画の系譜にこの作品が入らない根拠としては、主人公が人を殺さない軍人であることをあげていました。確かに主人公は軍隊には所属しているけれども、その任務は自分の身を危険に晒しながら他人の安全を守るというものなので「米軍がイラクに対して持つ加害者としての罪」からは免れた存在です。そういう人をわざわざ主人公にするという工夫をしているのだから、その点を無視して解釈することはできないだろう、という町山氏の主張には分があるように思えます。

ですが、両者の議論は結局平行線で終っていました。宇多丸氏は自身の解釈を改めませんでしたし、ネット上で見られる『ハート・ロッカー』評に関してもざっと眺めると大部分は宇多丸さんタイプの解釈ばかりなので多数決では町山氏の解釈は否決されそうです。

私自身はといえば、先にも述べたようにこの映画は非常に適当な感じでざっと眺めただけということもあって、確かなことは能力的にも資格的にも言えないのですが、大多数の人とは逆で宇多丸氏的な解釈の方が全く受け入れる余地のないものに見えます。

ま、そもそもジェームズ一等軍曹の前半の姿さえ「ストレスでおだっている状態」(「おだつ」は方言ですね...)くらいにしか見えていませんでしたし、「アドレナリンジャンキー」「戦争中毒」云々ということが作品の主要なテーマとは全く思いませんでした。それよりも中盤の「どこにぶつけてよいかわからない義憤を抱えて混乱している」姿の方に目がいきます。

ここで、やや唐突なことをいうと、ジェームズ一等軍曹のイラクでのあがきは『羊たちの沈黙』でクラリス捜査官(当時は訓練生?)が語った幼少期の話を思い出させます。と、いいつつ私は『羊たちの沈黙』もきちんとは見たことがないので(←!)非常にアヤフヤな話なんですけどね。一応 Wikipedia から引用するとクラリスの話はこういうもの↓です。

クラリスは幼い頃に母を亡くしていたため、警察官の父と二人暮しをしていた。彼女は父をこよなく愛していたが、彼女が10歳の時に彼が強盗に射殺される事件が発生。孤児となったクラリスはモンタナ州にある母親の従兄弟夫婦の牧場に預けられることになった。牧場主は大変まじめな人だったが、牧場に移ってから2ヵ月後のある夜、彼が子羊たちを屠殺している現場を目撃してしまう。クラリスは子羊たちを助けたいと思い、その1頭だけを抱いて牧場を出たが、結局保安官に見つかり、子羊も殺されてしまい、怒った牧場主によって彼女はボストンの施設に入れられてしまう。この時の子羊たちの叫びが、その後も彼女の心にトラウマとして、また悲しい少女時代の象徴として残り続け、彼女を悩ますこととなる。

この牧場では羊はそもそも殺されるために育てられているわけですし羊を殺すことは誰にとっても当然の行為です。また羊たちも牧場の外に逃れて野生化して生きて行くことはできないわけですから人間に育てられて殺されて喰われる以外の選択肢はありません。そういう状況を見て「なんとかしたい!」と感じたところでどうにもなるはずもないし、そもそも普通の人間なら「なんとかしたい」とも思いません。でも幼少期のクラリスはそう強く思ったわけです。そしてどうにもできなくても何かしなくてはと突き動かされて子羊を抱いて逃げるのです。その行為によって自分の居場所さえ失うというのに。

一方ジェームズはイラクでのひどい状況を目の当たりにして色々空回りしつつあがいていたので、自爆テロ(要員にされたけど死にたくない)オジサンを仲間の制止を振り切ってタイマーが1分切るくらいまでねばって助けようと必死に頑張ります。でも結局助けられずオジサンは爆死してしまう。その姿が子羊を抱えて彷徨う(そして結局どうにもならずに捕まる)クラリスの幼少期の姿と重なります。

私の解釈ではクラリス捜査官は狂気を秘めた人物です。『羊たちの沈黙』の登場人物で最も狂っているのは実は彼女ではないかと思っています。普通の人間なら渇望してやまない出世や名誉・名声、他人を支配すること等々に全く関心がない。(猟奇殺人犯や彼女の上司やレクターの被害者たちも含めて)ほとんどの人間が常に欲望し、餓え、まるで中毒になって禁断症状を起こしているかのように求める対象には執着しないのです。レクターは人の欲望を利用して相手を理解し洗脳し操るすべに長けた人物であるのでクラリスの異常性にはすぐ気づきます。

他の人間が欲望のために多かれ少なかれラリっており、その欲望を肥大化させて異常者となり破滅していくのだとすれば、彼女はそういう人間の一般的なケースからはずれているという意味でクルっています。そしてなぜそんな風にクルったのかを知りたかったレクターは彼女に告白を求め、彼女の狂気を理解し礼を述べます。でもレクター以外は彼女の狂気や行動原理を理解できません。犯人のアジトへ単独で乗り込んで(自分も殺されるかもしれないという危険さえ顧みずに)被害者を救出した行為も、ラリってるだけの人達には単なる目立ちたがり屋のスタンドプレイとしか解釈できないわけです。注目を浴びたい、という欲望に餓えた末の中毒者の行動にしかみえないんですね。

ジェームズ一等軍曹の行動について解釈がわかれるのも同じような理由からなんじゃないかと思います。あれが危険な目にあうことの快楽に飢えてラリった人間の姿にしか見えない人には、どんなに言葉を尽くして説明されても、やっぱりそうとしか見えないのでしょう。これは仕方が無い。

けれど、あの顔や動きはあくまで役者の演技なわけですし、作り手の演出によるものですが、私には非常によく出来たものに見えました。ヘリから降りて来るときのシルエットだけでも他の兵と何か雰囲気が違う動きをしているとわかります。表情もよく出来ていて「やっかいを抱え込んで困っている人の顔」になっていました。普通にいう「決意を固めた人」的な晴れ晴れとして迷いのないサッパリした表情の顔、なんていうのはこういう本当に深くて大きくて複雑で誰の手にも負えないような何かを相手に挑もうとする人間の顔じゃないんですよね。その点でリアルというかわかってるな、と感心しました(←えらい偉そうに書いてるけど何様目線だよ!←うるせー!)。ジョディ・フォスターはいつもそういう顔なのでクラリスの役作りは楽(?)そうですが、ジェームズ役の俳優さんは頑張ったんじゃないかと思えます。

(補足:上記のポッドキャストでの議論をざっとですが聞き返してみて、両者ともに「デビット・モース」という役者が演じていた役を「自分が殺される不安や倫理的な問題について思考を停止して戦場に適応した人間」と看做しているのに気づきました。そして宇多丸氏は「主人公ジェームズがそういう人間に憧れており迷った末結局そういう人間になった」と考え、町山氏は「主人公は最初はそういう人間だったが変わっていったんだ」と解釈していました。

はっきりは言ってませんでしたがこの役を『フルメタルジャケット』に出て来た「女や子どもなんてよく殺せるね」という倫理的な皮肉を含んだ問いに「動きが遅いから簡単だぜ、うははは」と技術的に可能かどうかという問いとして答えた兵士のような人間とみたようです。主人公に話しかけてきて「いままでいくつ爆弾を処理したんだ?」「873個だって!すごいなそりゃ」みたいに大声で陽気そうに会話していたことがそう考えた根拠なのでしょう。

でもモースが演じたのは「リード大佐」ですから階級を考えると話は全く違ってきます。彼は軍医には見えませんから恐らく連隊長か何かです。普通ならあんな現場にはいないはずの遥か上の役職の人がたまたま主人公の活躍を目にして、優秀な上級管理職の人心掌握術を使って派手に他の兵士にも聞こえるように褒めたシーンと受け止めるべきでしょう。それまで爆弾解除そのものにしか全く興味がないため個人的な戦利品をコレクションするだけで完全に自己完結して他人のことなんて眼中になかったのが、直前に部下には殴られ、今度は思いがけなく賞賛されたことをきっかけにして、他人のココロに興味を持つ様に変わり始める場面なんじゃないでしょうか。この直後がイラクの子とサッカーボールで遊ぶシーンですし。けれど他人のココロに関心が向いた結果、部下の気持ちだけじゃなくそれまで目に入ってなかったイラクの状況にも感づいて苦悩し始める、ということに繋がっていったんだと思います。)

戸田ナッツについて

ところで、今回色々ググっていて「あららら...」なものをみつけました。誤訳界の巨匠戸田奈津子先生に関してのネタなんですが、こんなのがありました。

>> ニコニコ大百科

大尉から准将:パイレーツ・オブ・カリビアン
原語はそれぞれ「Captain」と「Commodore」。大佐と准将である。一般的な軍の階級は大尉-少佐-中佐-大佐-准将なので、4階級特進という訳の分からないことになった。なっちはこういった身分・階級の違いやそれにまつわる表現や皮肉などを直訳しすぎるきらいがあり、他にも「王妃」を「女王」としたり「女主人」を「男妾」とするなどの珍訳がある。

戸田ナッツの字幕がすざまじい誤訳だらけであることはつとに有名ですので、今更とは思います(私も『アポロ13』の有名な誤訳では鑑賞中に声を上げそうになりました:笑?)。ですが上の例では指摘している方もちょっとアレな感じで気になります。「身分・階級の違いやそれにまつわる表現や皮肉などを直訳しすぎる」から Captain を大尉と誤訳したということのようですが意味がわかりません。

パイレーツオブなにがし』は見たことがないのでどういう文脈のセリフかわからないのですが、確か海賊の話だったと思います。ですので、この Captain は海軍の Captain なんでしょう。海軍以外では Captain は確かに「大尉」です。でもこの言葉は通例「艦長」という意味でも使い、大型の軍艦などは陸軍でいえば連隊と同等扱いされるため、それを指揮する艦長=大佐ということになって Captain が海軍では大佐の意味になるのだったかと記憶しています。

ですので、戸田ナッツが海軍では階級の訳語が変わるということを(も?)知らなかったので誤訳したということであって「直訳しすぎる」云々はわけがわかりません。上に引用した項目を書いた人はわかっていないで書いたんじゃないでしょうか。

それもなんだかな、と。そんな感じで。

December 13 Tuesday 2011

3年間の体重変化

まったくもって「もとのもくようび(by 『ウイッチハンターロビン』)です。

>>

どんな原始的な手法でもグラフに書き出すのはデータ「視覚化」の一種ではあります。素のデータだけではよく見えなかったもの(多くは「関係性」かな?)が見えるようになります。グラフより更に素朴ではありますがなんらかの順位付けをして単純にリストに書き出すだけでも相当色々なことが見えてきたりしますしね。

ところで上図では各年の体重変化を重ねて表示しました。3年分を一本の折れ線で表すよりは色々なことが読み取り易くなっているのですが、2010年と2011年の変わり目に異常な激増をしたのがわかりにくくなっていて一長一短です。今年の秋には更に一段激増してついに2009年のレベルを越えつつあって完全にリバウンド状態。ひどいものです。

それにしても(個人差があるのでしょうけど)こうして見ていると体重の変化というのは徐々にというよりは、ある時点でドカっとくるらしいことがわかってきます。いったいどういう仕組みなんでしょうか。何かのスイッチが入って「脂肪放出!」とか「蓄積開始!」みたいになるのだとしたら、その仕組みを使って自由に太ったり痩せたりできそうな気がします。ま、仮にそれがわかったとしても様々な業界の都合で闇に葬られそうですけど。

JMに出てた女優

そういえば世界の大半の人間が患っている病気の治療法がわかっているにもかかわらず、完治させるよりは儲かるからという理由でそれを秘密にして抑制薬を売っていた製薬会社の陰謀をアレコレ...みたいなサイバーパンク映画として『JM』というのがありました。

攻殻機動隊SAC』の「笑い男事件」はよく考えてみると非常によくにたモチーフというか、コレあたりがモトネタっぽかったにもかかわらず、私の中では全く結びついていませんでした。たぶん『JM』では隠蔽側の動機が単純な守銭奴的打算であったのに対して、『SAC』ではもっと陰湿で複雑な欲望(私怨や嫉妬、保身等々)を前面に出していたからじゃないでしょうか。行為より動機で分類してたんですね。

あと、あからさまなのに関連性に気づいていなかった件でもう一ついうと、バトーの目の造形ってモリィの目ですよね。モリィは『ニューロマンサー』の武闘派ヒロイン(?)でその筋では超人気キャラなんですけど、確か目はバトーみたいにゴーグル埋め込みタイプで涙腺は口の中に出る仕様だったはず。なので彼女は涙(=悲しみ)を見せる事はなく人知れずそれを飲み込むわけです。

>>

このモリィは『JM』の原作(『記憶屋ジョニー』)にも出て来るのですが色々大人の事情があったらしくて映画では彼女のパチモンみたいなキャラクター「ジェーン」に変わってしまっています。ま、そこ以外にもあまりにも残念すぎる出来の映画で公開当時私もガッカリした一人ですが、今みるともうどうでもよくなっているせいか「そんなにひどくもなかったかもな...」みたいな気がしないでもありません(←いやいや、ひどいだろ:笑)。

ただ主演のキアヌ・リーブスが後に『マトリックス』で似たような感じの役(←!)をやって、そっちが大ヒットしていることを考えると(原作への理解とリスペクトの不足云々ではなく)足りなかったのは実はちゃんとしたアクションシーンというか殺陣だったんじゃないのかな、と。でも『リローデッド』はアクションシーンを盛り込みすぎて破綻してたんで、量じゃなくて主に質の問題でしょうけど。

で、アクションの駄目さが致命傷とすると、やはりモリィのバッタモンであるジェーンの罪は重そうです。普通の状態でも全く強そうなオーラもなかったし実際闘っても動きはトロいし、どうもならん感じでした。どちらかというと単なる気の毒な女の子みたいな感じというか(ただ折角出てたドルフ・ラングレンもショボショボだったので役者のせいじゃなかったのかも:汗)。

そんなわけでジェーンを演じた女優さんは(これが映画デビューだったらしいけど)こんなひどいのに出ちゃったから監督のロバート・ロンゴともども消えちゃったね...と最近まで思い込んでいました。

>> Dina Meyer.com

そしたら、アレじゃないですか「ディナ・メイヤー」でググったら『ドラゴン・ハート』に出てたちょっと三枚目っぽいヒロインって、この人だったんだ!とか『スターシップ・トルーパーズ』(←そういえばこれも主人公はジョニー・リコ、つまりジョニーですね)の男勝り&一途な戦友の女性兵士ってよく見たらこの人じゃんか!うは!等々、ほんとフシアナにも程がある感じです。人間の認識力には「死角」ってありますよね、こわいこわい(←そういう問題か?)。

「に」と「へ」

助詞の「に」と「へ」の使い分けについてググってみるとたとえば以下のような説明が見つかります。

>> 三省堂 Web Dictionary

 に……動作の到達点を示す
 へ……動作の方向を示す
 ところが、ほとんどの場合、「に」と「へ」を入れ換えても、意味は通じる。

もっと簡単には「に=場所」「へ=方向」なんて風にもいいます。が、十分に説明できているとは言い難い感じです。両者に違いが出る場合はどんなときかについては以下のような解説もありました。

>> 「に続く」と「へ続く」

 それでは「に」「へ」に用法の違いはないのか。同書では「宇宙への旅」は言えるが「×宇宙にの旅」は言えない、「遊びに行く」は言えるが「×遊びへ行く」とは言えないと説明します。なるほど、そのとおりですが、これは一方が日本語として完全に破綻しているため、(日本語を母語とする者ならば)使うときにまぎれる心配はありません。

上記の説明は『日本語反省帳』の記述を参照しているそうです。しかしこの説明ではよくわからない(あまり意味が無い?)として筆者の飯間先生は「に続く」と「へ続く」で文意が変わる件について考察します(江戸時代に続く時代=明治時代、江戸時代へ続く時代=室町時代etc.)。

なるほど...と思う反面、これは方言なのか私の個人的な何かかもしれませんが「江戸時代に続く時代は何時代ですか?」と質問されたら、おそらく「室町時代」と答えると思います。もちろんこの場合に「明治時代」を意味する、という捉え方もできることはわかりますけれど。

この例とはちょっと趣旨が違ってくるのかもしれませんが「この道は未来へ続く道なのよ〜」みたいな歌詞(?)があったとして、それが「未来に続く道」と言い換えられても私には同じ意味に聞こえます。時間的にあとのことを示すという用法は、「ナニソレ(のあと)に続く」と一旦補足してみてから省略する...という過程を脳内で経ないとピンとこない感じです。どうなんでしょうね。

それと引用部分の非文例「遊びへ行く」なんですが、一応私は日本語母語話者なんですけど「完全に破綻」とまでは感じないんです。これも方言なのか個人的な感覚の問題なのかはよくわからないのですが。

この「遊びへ行く」に関する説明を私なりに(推測で:笑)解釈すると、これは普通の名詞と動詞の連用形から派生した名詞を使う場合の違いについて述べているようにみえます。

つまり「デパート」は前者なので「デパートへ行く」「デパートに行く」はどちらも○です。でも「買う」の連用形「買い」を使う場合には「買いに行く」は○だけど「買いへ行く」は×となります。動詞に接続できる、ということから行った場所で何かする、つまり単なる方向ではなく、その場所で何かする意を持つ場合に「に」となるというような説明が可能です。そして同様にして「遊び場へ行く」「遊び場に行く」は○だし「遊びに行く」も○だが「遊びへ行く」は×だ、というのはわかるんです。

しかし実際には「遊びへ行こう」でググってみると明らかに「に」の場合より少ないですがヒットします(14200件/「遊びに行こう」:388万件」)。そして単なる誤用と斬り捨てるには多すぎるようです。「買いへ行こう」でさえ全くヒットしないというわけではありません(4570件/「買いに行こう」:321万件)。

きちんとしたコーパスを使って調べないとわかりませんし理由についても判然としないのですが、どうも(日本語教育文法でいうところの)意志形(意向形)である「行こう」と結びつくときだけ「遊び」や「買い」などの動詞連用形タイプの名詞が使えるようになる...みたいな傾向がうかがえます。

とりあえずそんな感じで。

December 07 Wednesday 2011

野村総研のツール

天下の野村総研が「True Teller」というテキストマイニングツールを作っていたんですね。ここ数年海の底に沈んでいた(←!)ので知らんかったです。うむむむむ。

>> True Teller

いつ頃からあるんだろう?もともとコールセンターに蓄積された「お客様からの御意見」みたいなのを効率よく分析したいという需要はかなりあったようで、それに関する研究も色々進められているのは知っていました。ただ当時(?)は野村総研でこんなツールを提供しているという話は聞いた覚えがなかったな。

チラっと上記リンクサイトを眺めただけなので、どういう仕組みのものかはよくわからないのですが、取りあえずなんらかのキーワードとそれの評価に関連する語彙のペアを作って、そのペア同士の関連性について作図するようなもの...のようです。

なんとなくはどうやってるのか想像はつくのですけど、サイトの図ではネットワークの結節点みたいになっている部分になんて書いてあるのかよくわかんなくて気になります。資料請求とかしたら教えてくれるのかしらん。顧客でもないヤツなんかは相手にしてもらえそうにありませんが。

ええと、「True Teller」で適当にググってみたらこんなの↓がありました。詳しいことはよくわかんないのですが。

>> Conference Proceedings

Ohashi, T.: 2008, The Analysis of Results of Research into ‘the Ideal Society’ in Japan, Sweden and Bhutan -- Using the indicator of Human Satisfaction Measure (HSM), "The proceedings of the Fourth GNH Conference", pp.49-87, Thimphu, Bhutan.

この中で分析に True Teller が使われているみたいです。「ブータン学」ってのがあるんですかね。

8.2 Mapping of words from Japan and Sweden The mapping of words is done with principal component analysis by using True Teller text mining software to show the twodimensional relevance between words.(p.77)

「principal component analysis by using True Teller」とあるので、独特の何かというのではなく、クラスタリングの前に次元縮約するのに「主成分分析」をしていて、それに True Teller を使っただけみたいです。普通の統計解析にも使える汎用ソフトなんですね。まあ、当たり前か。とにかく分析結果は下記のように出力されたみたいです。

>>

キーワードを2次元上にプロットしてクラスタリングしてます。何せ大変無礼なことに全然中身を読まないで今これを書いているので、クラスタのラベル名と関連しているらしいキーワードの選定法だとか何も理解していません。いくつかの特定のキーワードを含むクラスタにはコレコレというラベルをつける、みたいなことは予め定めてあって...という方法なのかな(←全然違ってるかもしれません、メンゴ!)。

確認してないので私の推察は見当違いかもしれませんが、上でみた「ブータン学」での分析結果と違って True Teller が見本(←独自の分析法?)で「キーワードと評価語のペア」同士をそれぞれ線で繋がれたネットワークとして描いているのは、これはたぶん顧客への説明のし易さから取り入れた工夫なんじゃないかと思います。クラスター分析を使ってクラスタリングして線で囲むということをやると「線の端のあたりにある別クラスタ内の項目同士は距離としては近いんだけど、なんで別のクラスタってことになるわけ?おかしくない?」とか平気で尋ねてくるような人が自称専門家にもいますからね、恐ろしいことに。

ていうか、ホントに出会って酷い目にあいましたし。線で結んであるとそういう人でも「あーこっちは繋がってるナリね...」と考えて疑問に思わないでくれそうです(←ホントか?)。そういう利点もあるので語彙同士の関連を線で結んだネットワーク状に描くという手法の方が主流になりつつあるのですかね。そうでなければ「ラフ集合」なんかを使うとか。

それと2次元にプロットされた語同士の関係性から意味を...という話はそのままではものすごく通じにくいので(文法範疇でいうところの)極性のようなものを表す語とセットにして示せばとりあえず聞き手は「わかった!」と言ってくれやすいんじゃないかとは思えます。実質的には分析の助けにはなってなさそうですけど。

ちなみにググると当然のことながら否定的な声はありますね。たとえばこんな感じ↓で。

>> 意味解析ができるテキストマイニングを売りに来るのは止めて欲しい

テキストマイニングエンジンといえば、とりあえずは野村総研のTrueTellerを思い出す。TrueTellerが主に扱っていた情報は、CS部門などに溜まる情報である。TrueTellerは業界随一ぐらいの解析精度を誇るし、値段の高さも随一だと思うのだけど、べつに意味解析とかできないと思う。できるといってるけど、精度が悪くて使えない。それでも、多くの会社が導入して、それなりに使えているのは、解析対象がCS部門の入力したテキスト情報だったからだ。テキストマイニングの源流みたいなのは、シーベルとかのCRMとかSFAパッケージが持っていた自動FAQ生成機能とか、営業日報解析とかそのあたりに原点があるように思う。

この指摘はおそらく「正しい」のでしょう。「精度が悪くて使えない」というか、期待したものが期待したかたちで出て来ない、という感じでしょうか。

コメント欄で青山学院大学の原田実先生が「できるよ!」と御指摘なさっていますが、それは「解析対象がCS部門の入力したテキスト情報だったからだ」という清書(?)的な部分もちゃんと計算機処理で「できるよ!」ということのように私にはみえます(←原田研究室のツールは類似する内容で表現が異なるようなものをちゃんとまとめられるように作ってあるようです)。たぶんそれができても「それなりに使えている」という評価を越えることはないのかもしれません。よくわかりませんが。

ところで True Teller には認定制度があるようです。

>> NRI認定テキストマイニングアナリスト初級

サンプルは4問だけですが、やってみました。うーん、この種のテストで受験者のテキストマイニング能力(?)は測れないんじゃないかな。文章をきちんと読まずにサッサと答えることへの抵抗の低さとかそういうものは測れるでしょうし、そういう能力が高い人なら実際の分析ができなくても満点取れそうです。でもこの手の分析に必要なのは、そういった要領や手際の良さとは正反対の能力だと思うのですが。

December 04 Sunday 2011

オバマに指を与える

いろいろあって(なくて?)ほんとやばい。・・・のですが、クダラナイことが気にかかっていると結局やらなきゃいけないことも先に進まないので、ちょいちょいと書きます。それと言いたいことを短くまとめる練習も兼ねて。

ええと、しばらく前のことですがロシアの女性ニュースキャスターさんがテレビの生放送中に(APECにオバマ大統領が参加したことを伝えつつ)中指を立てていたのが映ってしまい、解雇されるという事件がありました。

>> Russian Newscaster Gives Obama The Finger

↑動画サイトには上記のようにそのときの様子がたくさんアップロードされています。

「ロシア人ってほんと何考えてるのか表情からはわからんなあ」とか「アメリカンスキーとか言ってた?でも嫌いなんだ w」等々も気になるポイントですが、なんといっても「!」と思うのはタイトルの英語です。ボーッとして字義通りに受け取るとまるで「指を(切り取って?)オバマに与える」姿が映っているみたいに読めますが違うんですね。

「ショックを与える」「損害を与える」「誤解を与える」「不安を与える」「猶予を与える」「潤いを与える」etc...具体的なもの以外を「与える」という比喩的用法は確かに日本語でもありますが、この場合の目的語は身体の部位みたいに物体とかではありません。「指を与える」はかなり違和感があります。というより誤解します。

身体動作にかかわるという点では似ていますが give a kick や give a punch 等々なら「蹴りを喰らわす/おみまいする」みたいな感じで類似点を見つけて理解はできそうです。あ、そういえば「ゲンコを喰らわす」みたいな慣用句もありますね。他にも具体的な部位を使いつつ比喩的に使うものとしては「手を貸す」とかもあるか...。(ところで give のかわりに get を使うと受け身的になりそうなものですが get the finger は give the finger と同じ意味になるようです。have the finger だと「後ろ指をさされる」的な意味になって受け身ではあっても意味が変わってしまうようです。ワケワカラン)

上記以外の動画のタイトルには(とりあえず主語を she にして細かい差異を無視すると)「She gives the finger to Obama」とか「She seems to flip off Obama」などがあるようです。前者は上の例とほぼ同じですね。後者の「flip off」というのは字義通りには「はじき落とす」というような意味ですので「?」と思うのですが、これが「中指を立てて相手を侮辱する」行為を表す言い方らしいです。もともとは折り畳んだ状態からデコピンするみたいに指を動かす一連の動作が侮辱行為であって、中指が立った状態を提示することが侮辱行為というわけではなかったのかもしれません。

そう考えてこの女性の動作をみると今ひとつ伝統に対する理解が浅かったのではないか、と思わなくもありませぬ。

そういえば同じような例というわけでもないのですが、このように基本動詞(haveとかgiveとかgetとかput、take、make等々)を使った表現で以前「!」となったのがありました。

>> Couple Has Sex While Skydiving

なんとCNNで放送されたようです。スカイダイビングしながらナニをしたとかなんとか。それを撮影した一連の行為が著しく危険であるということで大変な批難を浴びたようです。この行為の是非は(外国の話なので)どうでもよろしいのですが、「A couple has sex」という表現は(主語がカップルなのでアレですが:汗)ボーッとしてみると「性別がある」といっているようにも見えます。

で、「have sex」には確かにそういう用例もあります。

>> What makes the ginkgo tree so special?

The Ginkgo has sex as in gender differences. The plants come in male or female.

イチョウには性別がある、という話です。ただし誤解を回避するためか「as in gender differences」と但し書きがあります。一見字義通りの意味にみえるこちらの方が用例が少ないのですね、たぶん。

ここまでのヨタ話をまとめますと、「give the finger」のように「give」と「finger」が共起したときには、それは字義通りの意味ではなく通常は「flip off」の意味になる。また「have sex」が「gender」という語と共起する場合には「性別がある」という意味になるし、それ以外のケースでは「ナニをいたす」という意味に(特に couple なんかが共起する場合には)なる、という風に考えられます。

これと同様の現象は、きっちり慣用化されたものからそうでもないアヤフヤで個人的なものまで、そして英語でも日本語でも、常にいたるところで起っているんじゃないかと思います。意味上なんらかのまとまりを持つ文の連なりであるテクストは、ここに注目すればアレコレ(←急にボカすなよ!)できるんじゃないの?と(それなりに)長年提唱しているのですが、小声すぎてなかなか聞いてもらえません。

チェスの構造とは?

ソシュールは言語における「構造」という概念説明のためにチェスの喩えを使いました。ざっくりと荒っぽく言えばチェスのルールがチェスの構造だということのようです。

材料が何であれ具体的な駒の形がどうであれ、ルールに則って駒が動かされればそれはチェスゲームではあります。一部の駒を無くしてしまってケシゴムに「ないと」と書いて代用してもゲームをプレイするのにはさほど支障はありません。気分的には盛り下がりますが(笑)。逆にチェスゲームで使用しないのならば、駒はただの彫像に過ぎません。

で、この譬え話を私が最初に読んだのはチョムスキーの本でした。いまとなっては大昔過ぎてどの本だったかは定かには思い出せないのですが、おそらく『言語論』だったんじゃないかと思います。具体的にどんなことを書いていたのかは皆目覚えていないのですが、こういうチェスの喩え的な考え方から、普遍的なルールが存在することを主張していたような気がします。つまり言語全般に通じる普遍的なルールがチェスのルールに該当し、個別言語間に見られる差異は個別のチェスボードや駒の形状や材質の差異とみなしたんじゃないでしょうか。違うかもしれませんが(←!)。

えー、で、譬え話についてアレコレ言っても仕方ないのかもしれませんし、ヨーロッパ系言語間の差異ならそんなもんかもしれませんが(ハンガリー語とかバスク語とかもあるけど:汗)言語全般についていうなら、そんなものでは済まない違いがあるんじゃないでしょうか。

少なくともチェスと象棋(シャンチー)と将棋の間に見られるくらいの違いはありそうです。この三者は基本のルールなどをみると似たり寄ったりにも思えるのですが、実際にプレイしてみるとかなり違った考え方が必要になることが顕在化します。

>> シャンチー(無料ブラウザゲーム)

↑チェスと将棋は馴染みがあるでしょうが象棋はやったことがない人も多いと思うので一応参考まで。

チェスの「ナイト」と将棋の「桂馬」と象棋の「馬」は似たような動きができる駒です。この中で一番自由に動けるのがナイトで、桂馬と馬には制限があります。桂馬は前方向にしか進めません。そのかわり成駒化したり持ち駒として打ち込まれることが可能です。馬は基本性能としてはナイトと同じですが、前後左右に敵味方問わず何か駒があるとその方向には動けなくなります。これを「塞脚馬」というそうです。

・・・と、話が長くなりそうなので唐突かつ簡単にまとめますと、大枠のルール(文法)に共通性があって個々の駒の性質(語と意味の関係)にも近似したものがあるにもかかわらず、プレイする際に有効な戦略や戦法は著しく異なってしまっているのです。少しでも駒の性格が変わったりルールに変更があるとプレイヤーは振る舞いを大きく変えなければ通用しなくなる、ということです。

そういう意味で(←?)実際に自分の母語じゃない言語を習得しようとする場合には、この「文法」と個々の「語と意味」の中間に広がる茫漠とした言語運用部分でどのような考え方が用いられているのか、について知るのが肝要となりそうです。座学ですとこの部分がオザナリになってしまって効果があがらないのかも。やはりゲームと同じく定跡を勉強しながら実際の(しかもできるだけ真剣な)プレイを通じて習得していくのが確実な気はします。

ところでこの三種類のゲームですが、ルールの方向性にそれとなく策定者の気質が伺えます。チェスを基準に考えると、将棋はなんというか再生能力のあるバンパイア同士の死闘のようです。攻めるにしても守るにしても傷や消耗をさほど気にしない戦い方といいますか。一方、象棋は自他の駒の配置によって相手の駒が本来持つ性能を発揮できないよう邪魔することに最大限気を配って戦うという非常にイジワルなゲームになっています。自分の駒だけじゃなくて相手の駒も(足手まとい要員として)活用するところがエグいです。でもこれによって駒の消耗が単純に不利さに繋がるというわけではない、という奥深さもつくり出しているのですからゲームとしてはよい工夫ですね。

電卓のキー

いまさらですが「MRC」「M+」「M-」キーの使い方がわかりました。「MRC」がメモリからの数値呼び出し、「M+」がメモリへの数値加算、「M-」がメモリから数値減算コマンド(?)ということのようです。そんな簡単なことだったとは...。

この他には「%」キーとか「MU」なんてのもありますね。「%」キーは数値を入力したあとでこれを押すとその数値がパーセント扱いになるようです。つまり 50 - 60% と入力すると 20 という値が返ってきます。

このあたりまではどの電卓でもそれなりに同じような動作をするようです。ただ、うちにある最古のキヤノン製電卓は「%」と「+/-」が同じキーに印字されていて反応しません。壊れているのか何か全く違った発想で使うのか...(ちなみにコレです)

あと「MU」に関しては結局よくわかりませんでした。とりあえず 700 - 1000MU とやると -30 つまり売値700円は定価1000円の三割引き、と出ます。減法じゃないとワケワカラン数値が出てきます。1200 - 1000MU なら 20 つまり二割増ですね。

こういう機能は「簿記」とかをやる人のためにあるみたいで一般人にはあんまり関係ないんでしょう。とはいえ、せっかく機能があるならみんな使いたいだろうに、なんでこんな変なことになってるんでしょうか?

>> 電卓のメーカによる仕様の違い

↑こちらのサイトを参照しましたが、要するに日本のメーカーは大昔からずーっとずーっと勝手なことばっかやって(特に日本の)利用者のことなんてなーんにも考えてなかったっていうことか。ことかことか。電卓の時代はそれでもやっていけたんでしょうけど、今は内輪モメというか足の引っ張り合いをしてチマチマ囲い込みをやってるうちに外国企業に根こそぎもっていかれるようになったんですね。携帯電話とかとかとか。

なんだかな。そんな感じで。

November 2011

November 21 Monday 2011

天気予報

なんとなく作ってみました。

>> 天気予報CGI

Twitter Bot でシンプルに天気情報を配信してくれるのがあると良かったのですが全然見当たりませんでした。当日の天候や気温の予想とそのモトになった天気図という三点があれば十分だったんですけど、そういう需要は少ないのか...。

ちなみに天気情報はYahoo!天気から引っ張ってます。天気図は気象庁から。天気図を作製してから2時間半後に更新しているみたいなんですが「2時間半」という時間設定は処理がやや面倒なので3時間後に更新するようにしています。

牛と象

馬と鹿の区別がつかない人を馬鹿といいますが、牛と象の区別がつかない人はなんと呼べば良いのでしょうか。ぎゅうぞう?

>>

上記「帝釈天」像を愛してやまないと主張しておきながら(←つまりよく見知ってはいる)「牛に乗っている」と(複数回)言った女子アナウンサーがいてびっくりです。耳が大きくて鼻が長くて牙があって...という動物が「ウシ」ですと?

>> ザ・トップ5 小林悠

帝釈天=インド=ウシと思ったのでしょうか(もちろんゾウもいるけど)。それとも彼女はお茶大の院卒らしい(←しかも専攻は「日本美術」だそうな)ので何やら凡人には伺い知れない思考経路を経て(たとえば「 elephant は aleph から派生した言葉だから elephant = aleph = ウシ 」とか)の発言だったのかしらん。よくわかりませんが。いずれにせよ専門家からみるとあれがウシと解釈される可能性も皆無ではありませぬ(←ホントか?)。まー爆破弁の件とか核燃料がメルトダウンしてないはずなのに溶けて穴開けて流れ出ちゃったりしてる件とか「冷温停止」は実は「冷温停止状態」のことでして云々、専門家のいうことはよくわからんですから...。

ま、それはともかく(?)確かにこの帝釈天のお顔はイイですね。別に仏像を見る趣味は全然ない私ですが、今これを書いていてふと思い出しました。これまで見たことがある彫像で一番印象深かったのはそういえば仏像だったんです。戒壇院の四天王像なんですけどね。

>>

月並みな感想ですけど、ほんとに生きてるみたいな像でした。あと更についでに言うと絵画で感銘を受けたのはドラローシュの『ゾンタークの肖像』だったりします。

>>

写真じゃわからんと思いますけどね(笑)。ちなみにモニタからちょっと離れて見るのがオススメです。

November 03 Thursday 2011

剣術

いよいよリバウンドがひどくなってきたので、屋内でパパッとできる運動でもしないとかなりやばいです。そこで木刀を振ってみることにしました。と、いっても別に剣術の心得があるわけでもないんですけど。

で、どんな感じかというとコレ↓に近い感じです。

>> 戸山流居合道の歴史

第3次は、草案軍刀操法及び試切が陸軍戸山学校田中久一学校長より出され、軍刀操法として、目的、実施法の概要、実施上特に注意すべき事項、敬礼、準備姿勢、抜刀及び納刀、操法として一本目(前敵)・二本目(右敵)・三本目(左敵)・四本目(後敵)・五本目(突撃)・六本目(前後敵)・七本目(左右敵)の七本の使術が制定され、現在の戸山流居合道「基本の形」の原形となっています。

帝国陸軍戸山学校で軍刀操法を研究する中で生み出されたものを「戸山流居合道」にまとめて発展させたということでしょうか。オイラがやっているのは一本目から七本目までを適当に(?)繰り返すだけというものなんで、まあ、非常に単純かつ原始的です。三本目の「左敵」だけちょっと違う動きをしますが、あとはほとんど同じ動きの応用といってよいのではないかと。左から右に払って、次に打ち込むみたいな感じです。この技(?)をどこで知ったのかは、もうよくわからんのですが何かの図解でみたような。(色々検索してみると『軍刀の操法及試斬』という本がネット上で閲覧可能になっていました。驚きです。これなら誰でも学べますね...学んでどうするのかは知りませんが:笑)

で、それ以外の参考資料といいますと『千葉周作 剣法秘訣 千葉家蔵版』のみです。昔の本なので書誌情報がよくわからんのですが初版ではありません。大正四(1915)年の2月5日発行で同月25日に再版発行された(なんで二十日後に?)と書いてあります。編集兼発行者は千葉勝太郎さん。

千葉周作というのは「北辰一刀流」の創始者ですね。編者の勝太郎さんはお孫さんだそうな。というか、初代以降この一門は余り順風満帆というわけではなかったようです。そのあたりの事情などは Wikipedia を御参照ください(笑?)。『剣法秘訣』は現在でも『千葉周作遺稿集』で読めるようです。

えーと、大昔この本を入手したとき(祖父が亡くなって父が蔵書の大半を焼却処分したときに「お救い」しました:笑)には、厨房でしたので「なんだ北辰一刀流か...つまらん」と罰当たりなことを思ったものです。「過去の技術を合理的に体系化した剣術である」という美点はガキから見ると「つまらん」とか「ものたりん」となったんですよね。もっとオドロオドロしく神話に満ちていたり、恐ろしく起源が古いとかいうのが望ましかったんでしょう。

この本も巻末にある「奥之形手数目録」を真っ先にチロと眺め(←奥義から入ろうと思ったんですな:笑)たんですが、意味不明でした。たとえば「鳥鵬刄」というのは「小脇より進み切落し又打込處を石突にて切落し左へ居しきにて地生に掛け立ながら左の手にて敵の右の足を取りなげる跡同じ」と説明されています。ま、なんか相手をブン投げる?のかな、と。「石突き」がどうこうと書いているし、これは刀を抜かないで戦う方法なのかな?と。奥の手ってそういうこと?がーん、みたいな。

桜田門外の変

北辰一刀流だけではなく、実際に使われていた武術に共通する特徴のように思うのですが、権威付けの神話というか逸話の部分ではホラ混じりではあっても実際の技法に関してはかなり合理的というか実利的なんですよね。剣術は特に生死に直結するので、実効性は強く求められたんでしょう。

どうも基本的な考え方としては「相手の切っ先をいかに逸らすか」と「相手の右手をどうやって切るか」という二点に集約できるようです。映画などで見るイメージと違って袈裟懸けに真っ二つとかは狙わないんですね。たとえば以下の動画でも最後は概ね右手への攻撃で締めてます。

>> 北辰一刀流の組太刀

ところで北辰一刀流は歴史上の著名人などを含め色々な人が使っているのですが、ちょっとモニョる感じもあります。坂本龍馬が習っていたといわれても、彼は襲撃されてアッサリ殺されていますよね。ピストルを携帯していたことで有名だったりしますし。新撰組での使い手も山南敬助や伊藤甲子太郎らのように隊内紛争で謀殺された側です。

更にいうと「桜田門外の変」で井伊直弼を殺害したときの水戸藩(←北辰一刀流を採用)出身の襲撃隊の方々も、剣術では護衛についていた二刀流使い(河西忠左衛門)には歯が立たなかったようです。井伊直弼自身も居合術の腕前が相当だったとかで(その対策?からか)籠ごと短銃で撃って動きを封じているし、首を落としたのも薩摩藩から唯一参加してた人らしいです。なのであんまり「強い」剣術というイメージはありません。むしろ「多人数相手の実戦でも二刀流ってマジ強いんだ...」という方に感心するというかなんつーか。

ただ、考えようによってはこういうドライに割り切る態度というか、剣術の限界を分かった上でファンタジーに拘泥しないというところが北辰一刀流的な思考なのかもしれないんですけどね。

そういえば『桜田門外ノ変』という映画が昨年十月くらいに公開されていたようです。世間では話題にはなったんでしょうか?この映画は吉村昭著『桜田門外ノ変』を原作としたものなのだとか。襲撃実行部隊の指揮官だった関鉄之助という人を主人公として彼の日記をもとに水戸藩側からの視点で描いているそうです。事件の名前くらいは知っていましたが、今ひとつどんなことなのかわかっていなかったんですけど、なんだかまー色々あるんですな、という感じ。

時代劇の役割

この「まー色々あるんですな」の内実と関係するのですが、今年公開されて絶賛大コケ中らしい『一命』という映画のこととかを考えてしまいました。『一命』という映画は『切腹』という映画のリメイクで、『切腹』では体面を重んじて他人には容赦しないくせに自身は意気地なしという最悪組織として彦根藩が描かれます。「無慈悲で邪悪な小心者」といえば良いのか。

もちろんこれはフィクションなんですが(←その割に『切腹』の内容要約として「武家社会の欺瞞がどーのこーの」とされていることが多く、虚実の識別回路がイカレた人が多いのかな?と不安になります)「桜田門外の変」では本当に彦根藩が醜態を晒したようです。(『切腹』の元ネタは一応存在するようです。彦根の歴史ブログのコメント欄で「諸岡」さんという方が指摘しています。『明良洪範』巻の十二 pp.155-156「其頃は浪人甚だ多くして諸侯方へまで合力を乞いに出たり或る日井伊掃部頭直澄居屋敷へ浪人一人来りて永々浪人致し既に渇命に及び候間切腹仕度候介錯の士を仰付けられ下さるべしと云直澄聞れて其浪士は吾家に抱えられ度き望みか或は大分の合力でも受けたき望か内心に在んなれど左様言わずしてわざと切腹致たくと言ふならん其言ふ所に任せ切腹さすべしと云是に因て食事をさせ切腹致させけるあとで直澄後悔しけると也」の部分が該当するのだとか。「合力」に「金品を施し与えること」なんていう意味もあったんですね。)

襲撃計画の噂はあったのに虚勢を張って護衛を増やさず、それでも60名余りも随伴していたのに、直接戦闘に参加しないものも含めて僅か18名の襲撃隊を阻止出来ずにむざむざ藩主を目の前で殺されています。持ち去られた首は嘘をいって取り返し、しかも「大人の事情(?)」により暗殺事件は表向き無かったことにされて病気ということになりました。でも実際にはバレバレで庶民に「井伊掃部(イイ鴨)と雪の寒さに首を絞め」「井伊掃部を網で捕らずに駕籠で捕り」「倹約で枕いらずの御病人」「 遺言は尻でなさるや御大病」「人参で首をつげとの御沙汰かな」等々言われる始末。「赤備え」(←赤で統一した鎧を着るらしいです)とかいって、派手な格好付けはするけど全然内実が伴っていないことをバカにされているんですね。

で、私は思うのですが、こういう風に歴史的事実から表象される「彦根藩」というものは、非常に今日的な問題でもあるのではないでしょうか。ぶっちゃけ今現在一般国民の皆々様がキレ寸な感じで激怒している対象っていうのは、まさしく「彦根藩」的な組織だったり人物だったり行為だったりするわけじゃないですか。そして「時代劇」の需要というのは、そういう怒りを直接対象にぶつけるのではなく、時代や舞台を過去にすることでワンクッション置きつつも、一般庶民と怒りや嘆きを共有するところにあったんじゃないですかね、と言いたい。

『桜田門外ノ変』も『一命』もそういう意味では非常にキャッチーというか、持っていき方では昔の時代劇が担っていたような役割を果たせたかもしれない題材だったんじゃないかなあ、特に『一命』は再編集して震災後対応を施した上で公開出来たら、ものすごいムーブメントになったりしたんじゃないかなあ、という気がして残念です。ま、三池監督はどうやら「彦根藩」側の人間らしいので、そういうのはもともと無理だったっぽいですけど。

>> ひとインタビュー 三池祟史さん

さらっと眺めただけでいうのもナンですが

今の時代の価値観を変に介在させたりするのも一つのやり方かもしれませんが、その時代本来の魅力が描けなくなってしまう気がする

というのは虚実の識別回路が壊れてる系の馬鹿げた意見だと思いました。原作の『異聞浪人記』(なんか『一命』という体裁に変わったようです)もそうですし『切腹』もですが、舞台となった江戸時代初期の魅力なんてもともと描いていないんですよね。手塚治虫の『ジャングル大帝』をリメイクして「今の時代の価値観を変に(略)動物達本来の魅力が(略)」とか言ってるのと同じようなもんです。ちなみに伝聞ですが森口博子さんが手塚先生に対してこれに類する発言(「ジャングル大帝は自然のすばらしさを描いてますよね」)をして、生放送中に大激怒(「そんなものは描いてない!」)させたのだとか(笑?)。

原作者の執筆動機などについては下記のサイトが参考になるかもしれません。

>> 滝口康彦「異聞浪人記」 千年書房九州の100冊

滝口は復員後、佐賀県多久市の炭鉱に就職した。手には何の技術もなかったが、坑外(こうがい)修繕の仕事にまじめに取り組んだ。ところがその3年後、会社から突然の解雇通告を受ける。親族に共産党員がいたことで、無関係だった滝口にも疑いがかけられ、レッドパージ(共産党員追放)の対象となったのだ。懸命に働いてきた会社からの仕打ち。保身のために弱い立場の人間を平気で切り捨てる組織(=権力)への反骨心は、後年になっても忘れなかった。妻のスエノさん(78)=多久市北多久町=は代弁する。「そもそも『日本は絶対に正しい』と教育してきた国が、戦前と戦後で舌の根も乾かぬうちに態度をコロリと変えた。曲がった事が嫌いだった主人は、体制や組織に対する不信がぬぐえなかったと思います」後に、有名作家が所属する「日本ペン・クラブ」から入会を何度も誘われながら断り続けた事実からも、無頼の姿勢がうかがえる。恨みの文学。そう評された滝口文学。

やはりそういう人か、と思いました。「保身のために弱い立場の人間を平気で切り捨てる組織(=権力)への反骨心」こそが作品の核であって原動力なんですよね。たとえば杉浦日向子先生のように好事家的興味で江戸時代の風俗を描いていたわけじゃないのですから『異聞浪人記』からそういうものを抽出しようとしたってもともと無いものは無いんですよ。

なんだかな。

細々とした備忘リンク

相沢佳子先生のブログ↓
>> ベーシック・イングリッシュと生みの親オグデン
著書で句動詞の意味が比喩に依拠している...的な指摘をされていて「おお!」と思いました。

簡易英語には色々あって Plain English というのもあったんですね↓
>> 英語脳を作る 英会話の九九音読ドリル
学術的興味というよりは実践英語教育というタイプの方のようです。

噂には聞いてましたが↓
>> 菊川怜と定積分
ぽそっと対数の説明とかもしてますけど、本当に必要な状況にならないとなんでこんなものがあるのかわからんですよね。映像中で彼女もそんなようなことを言ってますけど。

パチスロになってるんですね↓
>> ガンダム実写版 恋愛編
これを見て「面白い」とか好意的に評価している人々をみて、もう日本は駄目なのかな、と思いました。あとライターとかで筆名を「アルテイシア」にしているヤツがいるみたいなんですけど、誰が生きててOKってことにしたんでしょうね、そういうヤツのこと。せいぜい「カテジナ」とかなら(キ印の自覚あるんだ...と)微笑ましく思われただろうに(笑?)。

20代中国嫁と40代オタ夫の日記↓
>> 中国嫁日記
中国とのギャップよりも九州(の男性)文化に衝撃をうけます(汗)。

昔のチリの話↓
>> ビクトル・ハラの生涯
>> アマンダの思い出
「無慈悲で邪悪な小心者」の犠牲者ですね。

October 2011

October 26 Wednesday 2011

アニメの制作場所

四方田犬彦先生の『漫画原論』に収録されているネタで「?」となる記述があり、以前から気になっていました。

また逆に、『マジンガーZ』のように韓国や北朝鮮で制作されて日本のTVで公開されているアニメでは、街角の建物から一切の漢字が追放されているという、奇妙な現象が生じています。(p.334)

「また逆に」の前には日本の漫画が他国(東南アジアなど)で翻訳出版されるときに、現地の生活習慣に合わせた変更が加えられるという話をしています。大きく原作に変更が加えられた例として韓国版『のたり松太郎』で相撲を朝鮮式シルムとして描き直したことに言及し、反対にアニメでは上記引用のような事例があるとしています。

日本からの漫画輸出時に、現地に合わせた改変が加えられることについては(左右反転の件などを含めて)普通によく知られた話ではないかと思います。韓国に関しては日本文化が正式に解禁されていないという事情もあって(周到に日本文化の痕跡を消す意味での)全面改訂なのかもしれません。また、近年(ごく最近は事情が違うかもしれませんが)アニメなどのクレジットに漢字二文字や三文字の名前が列挙されるのもよく見かけましたので、海外への下請け発注があること自体も驚くことではありませんし、以前からそういうものがあったとしても不思議はありません。ただ、これを「制作」と呼ぶのか?という点で引っかかりは覚えますが。

いずれにせよ、あの『マジンガーZ』を「制作」したのが韓国や北朝鮮(←!)だというのが真実なら衝撃です。一体どういう事情があってそんなことが行なわれたんでしょうか。一応表向きの制作は東映動画ですけど。

・・・ということで、ちょっとググってみました。Wikipediaの記述ですが、どうやらこんな話↓らしいです。

>> アニメ制作の国際分業化

日本が国外に部分的に外注したもっとも早い例では、1968年に制作された第一動画の『妖怪人間ベム』が当てはまる。大手のスタジオとなると、1972年から労働争議に揺れていた東映動画が、1973年に韓国の東紀動画、大元動画、世映動画に作画などの技術指導しながら下請けを出すようになる。同国への発注は人件費が高騰する1980年代後半まで続いた。

東映動画については「『東映アニメーション50年史』東映アニメーション、2006年、pp.48-50」に記載があるのだとか。これなら確かに東映動画制作の『マジンガーZ』(1972年〜1974年)に関して1973年以降の部分で韓国において一部下請け作業がなされた可能性はあります。

しかし「北朝鮮」がどう関係してくるのかは相変わらず謎です。紳士服量販店の衣類が北朝鮮で作られているというような話も聞きますので、私が与り知らないようなルートでのそういう交流もあるのかもしれません。ですが日本人スタッフによる指導などは不可能に思えますし(紳士服の縫製などならともかく)アニメのような特殊技術を先方がどうやって習得するのかについては想像がつきません(現在なら中国経由などで接触が可能かもしれませんが1972年といえば日中国交正常化の年ですし)。

また四方田先生が指摘する「街角の建物から一切の漢字が追放されている」という現象については、日本から海外への輸出が想定されていたためと考えた方が自然ではないでしょうか。(実際に東映動画が輸出を積極的に始めたのは1976年頃らしいですが)『マジンガーZ』は米国をはじめとして世界中に輸出されて(動画サイトで検索すれば確認可能です)人気を博しています。

妖怪人間ベム

ところで『妖怪人間ベム』に関しては以下のような話があるようです(ただ出典というかソースがどういうものなのか不明なのでアレなんですが)。

>> 妖怪人間ベムは韓国製

製作事情がなぞに包まれているアニメ「妖怪(ようかい)人間ベム」や「黄金バット」は、実は韓国で製作した逆輸入作品だった。作画監督は嵐山町の森川信英さん(82)で、65年から単身韓国に4年間渡り、韓国人スタッフを指導して一緒に描いた。(略)派遣先は韓国の民間放送会社・東洋放送の動画製作部。反日感情が渦巻くなか、日本の製作プロダクション・第一動画と共同でアニメ製作に取り組み、紙芝居で知られた黄金バットと、妖怪人間ベムを生み出した。(略)ベムの製作当時から製作費が削られ、人気が芳しくないこともあって東洋放送との共同製作がベム製作後に解消された。「国をあげての支援だと思ったのに。いつの間にか日本側の事情で、自由な判断ができない状況になっていた」。それでも、帰国する際には多くの韓国人スタッフが涙してくれたことが忘れられない。(略)最近では海外スタッフによるアニメ製作も珍しくないが、黄金バットやベムの作画を韓国人が手がけたことは知られていない。再放送を重ねるうちに人気作品になったベムをすべて森川さんの功績として神様扱いするファンもいるという。「私1人じゃ、あれだけの作品はできないよ」

どうも『妖怪人間ベム』に関しては森川信英さんの関与が大きく、その森川さんが韓国スタッフによる貢献を大きく評価しているという構図があるようです。上記引用には「実は韓国で製作した逆輸入作品だった」という表現がありますが、これはこの文の書き手の主張というか理解であって、森川氏自身の主張は「事実上の逆輸入アニメだ」というニュアンスのようです。

もう少しソースがはっきりしていて詳しいものとしては以下のものがありました。

>> 森川信英の世界 講演での話1

当時の基本的な日韓の役割は、日本で、作った脚本や絵コンテを空輸してもらい、韓国側は中割、トレース、色づけ、背景といった一連の仕上げを行います。こうして仕上げたセル画が再び東京に空輸され、日本のスタップにより、修正やチェックされ、撮影が行われたのです。日本側のスタップには、「東映動画」や「TCJ」という動画プロダクションから優秀な人材が集っていました。演出のベテラン、若林忠、生さんを始め、背景チーフには草野和郎さんがして、この方の弟子には今最大のアニメ作家、宮崎駿さんもいました。一方の韓国側は、私の思ったほど進歩せず、やはりアニメの難しさを痛感しました。(略)また国民性の違いから、絵の中にも韓国色が度々、出て描き直させました。例えば、ソウルの空は、濁って汚れているのが普通ですから、日本晴れの色が理解できないのです。「黄金パット」と「妖怪人間ベム」が、どこか他と絵が違う のは、その秘密はここにあったのです。でも無国籍風のあの絵に魅力があったからこそ、今でもこの作品は多くの人の支持に支えられているのですから、何が幸いするか判らないものです。

この引用部分では絵の色合いに「個性」が出たというだけの話のようですが、「ベロ」を担当した16才の現地スタッフのおかげで子どもらしい動きや表情を作ることができた、というような貢献についても言及がありました。また、韓国との提携打ち切りについては全く日本側の事情(アニメではない新番組が始まるとか、キャラクターグッズが売れなかった等々)によるものであったため、非常にその件でも現地スタッフに対する罪悪感を持ってしまったようです。

森川氏自身はそもそも韓国への赴任を決意した動機もその種のものであって、両国の友好関係を促進したいという強い希望を持っていたのだとか。これについては講演の最後でも言及しており、日本の若者が持つ嫌韓感情に憂慮しています。引用した講演は「あの」2002年W杯の前年だそうで、そういう点では色々皮肉な感じもしてしまいますが。

ナウシカがファシスト?

さて、冒頭の四方田先生の話に戻ります。「『マジンガーZ』が韓国や北朝鮮で制作された」というのは非常に誤解を生む紛らわしい表現であり、ほとんど嘘だと断じて良いでしょう。仮に東映動画が下請け作業を外注していたとしても、それは作品の「制作」に係ることではありませんし、単に「製作」的作業に限った話のはずです。それをもってして「制作された」とは普通はいいません。

一方『妖怪人間ベム』のような事情があり、なおかつ「事実上の逆輸入」というのであれば(ちょっと話を盛ってるなあ...とは思いますけど:笑)まだわかります。「逆輸入」なら「日本(の会社)製である」とは認めているわけですし。ただ、それでも「逆輸入」しているのは「セル画」であって、作品そのものじゃないですよね。

ところで、この『漫画原論』にはもう一箇所かなり「?」な記述があります。傍線は引用者がつけました。

図14は宮崎駿の『風の谷のナウシカ』の一カットで、この作品はアニメが有名ですが、今回は漫画版からあえて引用してみました。『北斗の拳』のつぎに『ナウシカ』が来るというと、いったいこいつの頭のなかはどうなっているのだ、ということになりますが、この二作は核戦争後の地上を舞台としているという点で共通しています。もっとも前者が強者生存の論理によって徹底しているとすれば、後者は人間を動植物の生命サイクルのさなかに置き、闘争ではなく共存をモットーとするという生態学的なイデオロギーに裏打ちされており、まったく正反対の印象をあたえます。『ナウシカ』は奇怪な昆虫や植物の一大カタログです。主人公の少女は世界がふたたび戦争の悲惨を体験しないように、美しい山河と故郷のために自己犠牲をはたします。じつはこれは、一歩まちがえるとファシズムが過去に援用したのと同じ修辞的空間を現出させてしまう危険があります。ともあれここで破滅ののちの世界がユートピア的な小国寡民の田園として映像化されたことは、興味深いことです。例外的というべきでしょう。(pp.374-375)

引用部分の記述は「未来社会をどのように描いてきたか」というテーマに関して『風の谷のナウシカ』に言及したものです。なので『北斗の拳』や『ナウシカ』という作品の内容をきちんと取り扱わなくてもしかたがないのかもしれません。つまり四方田先生が碌に言及した作品を読んでいなくても、その結果内容についてトンチンカンなことを平然と書いていても、青筋をたてるようなことではないのかもしれない、とは思わなくもありません。

とはいえ『ナウシカ』をこんな皮相な作品呼ばわりされて黙っているわけにもいかないでしょう。「主人公の少女は世界がふたたび戦争の悲惨を体験しないように、美しい山河と故郷のために自己犠牲をはたします」という要約はあまりにもひどすぎます。

原作漫画には一切そんなシーンはありません。映画版の内容しか知らず、映画版で王蟲の前に立ったナウシカがはねとばされるあたりを、ものすごく適当に雑に見ていた人ならそういう風に解釈するということもあるかもしれません。でも四方田先生は映画版しか知らないわけではないとわざわざ断わっています。

引用部冒頭にある「図14」は漫画版5巻(1991年)冒頭に出て来る「聖都シュワ」を描いたコマです。そして「漫画版からあえて引用した」と書いているということは、漫画版の内容は御存知のはずです。ただ漫画は全7巻(6巻は1993年、7巻は1995年出版)ですので結末は知らなかったかもしれません(『漫画原論』初版は1994年)。

しかし仮にそうであっても不思議です。原作を5巻までであってもまともに読んでいれば傍線部のような要約が可能とする余地はありません。また、ナウシカが「美しい山河と故郷のために自己犠牲をはた」す姿に共感することで(?)読み手の側に(?)「ファシズムが過去に援用したのと同じ修辞的空間を現出させてしまう危険」があるなどとはなりません。

頭がおかしい(たとえば脳内に「利己的ではない主人公=自己犠牲=ファシズム!危険!」みたいな回路ができている)のでなければ、まともに読まずに書いたと考える他ありません。いずれにせよ良いことではないですが。

色々事情があって、言及対象を詳しく読み込む時間がないまま何かを述べなければならないことはよくあることだとは思います。私も目下この技を習得しようと練習中(←?)です。目で見て、手で触って、口に入れて味わう・・・みたいなことをどんな対象にもいちいちやっていては、何一つ有限時間内に成し遂げられませんので。

ただそうであれば、もう少し慎重になってもよかったんじゃないでしょうか。『ナウシカ』がそんな程度の話かどうかは部分的に読んだだけでも感知できるでしょうし、宮崎駿が舐めて良い相手かどうかはわかりそうなものです。

『ナウシカ』はどんな話か

以下ネタバレになりますが『ナウシカ』の内容についてアレコレ書きます。

5巻を読む限り「美しい山河と故郷のために自己犠牲をはた」すのはナウシカではなく、王蟲を含むムシたちです。人工的に手を加えて兵器化された粘菌が制御不能になってそこら中の町や村を飲み込んで際限なく増殖していくのに対して、ムシたちの群れが突っ込んでいきます。この粘菌がだす瘴気は腐海のムシたちすら殺すのですが、大量のムシたちの死体が苗床になることで腐海の植物(?)が繁殖し、粘菌さえも取り込むのです。

そうして人間の手におえなかった粘菌は凶暴性を喪失して腐海の一部になり、かろうじて世界は破滅から救われます。人間の愚かな行為によって破壊されそうになった世界は王蟲たちの「自己犠牲」によって救われますが、この話のどこをどう引っくり返しても「ファシズム」に繋がるような何かは見当たりません。

王蟲のいう たすけを求めている森が粘菌のことだったなんて 蟲や腐海にとっては突然変異体の粘菌すら仲間なんだ 蟲たちは攻撃していたんじゃないんだ 食べようとしていたんだわ 腐海の食草を食べるように 苦しみを食べようとしたんだ それが蟲と木々との愛情なんだ 蟲たちは食べることができないので自分たちを苗床にして森に粘菌をむかえ入れようとしている(p.86)

ナウシカは上記引用部分のように王蟲たちを理解します。そして自分たち人間のことは「呪われた種族」だとみなします。「大地を傷つけ、奪いとり、汚し、焼き尽くすだけのもっとも醜いいきもの」であって王蟲たちはそういう「人間のえぐった傷口をいやそうと」しているのだと考えます。そのうえで自分も王蟲たちと一緒に腐海の一部になろう(=一緒に死のう)とするのですが王蟲は(自身は絶命して苗床となりながらも)彼女を守ってその命を救います。

もしかすると、このように彼女が「特別な存在」であり救世主であるかのように描かれることが、ファシズムの修辞的空間がどーの、という話に繋がるのかもしれません。でも、彼女がそういう人であるということを、様々な立場の人達がそれぞれの都合や欲望から解釈して行動することで色々話が錯綜するように描かれているわけですから、そうした危惧についても作品内世界できちんと自覚的かつ批判的に取り扱われているとみなすべきでしょう。

さて、生き残ったナウシカは色々あって(6巻)図14の聖都シュワの深部にある墓所へと向かいます(7巻)。

腐海の胞子は たったひとつの発芽のために くり返しくり返し降りつもり 無駄な死をかさねます 私の生は 一〇人の兄と姉の死によって 支えられました どんなにみじめな生命であっても 生命はそれ自体の力によって生きています この星では 生命それ自体が奇蹟なのです 世界の再建を計画した者達が あの巨大な粘菌や 王蟲たちの行動をすべて予定していたというのでしょうか ちがう 私の中で何かが ちがうとはげしく叫びます あの黒いものはおそらく再建の核として遺されたのでしょう それ自体が生命への最大の侮蔑と気づかずに(7巻 p.172)

引用部分の「あの黒いもの」というのは「シュワの墓所」のことで、どうやらそこには腐海やムシたちをつくり出した何かがおり、その目的は「世界の再建」であるらしいとナウシカは推理します。腐海を形成する人工の生態系は「世界の再建」を果たすために土の毒を浄化しており、千年前にできた最初の森は浄化を終えて毒のない清浄な土地を出現させているらしいこともわかっています。

しかし人類にとって望ましいことと見える「世界の再建」を計画実行するもの自身が、実は「生命への最大の侮蔑」であるのだと断じています。これについてはナウシカが物語の最後近くで行なう墓所の主と対話を参照しなくてはなりません。

絶望の時代に理想と使命感からお前がつくられたことは疑わない その人達はなぜ気づかなかったのだろう 清浄と汚濁こそ生命だということに 苦しみや悲劇やおろかさは 清浄な世界でもなくなりはしない それは人間の一部だから…… だからこそ苦界にあっても 喜びもかがやきもまたあるのに(p.200)

墓所の主はこのナウシカの発言のあといくつかことばをかわし「お前は危険な闇だ 生命は光だ!!」といいます。「浄化の神」として作られた人工生命はナウシカを汚濁であり希望の敵だと批判します。これに対してナウシカは答えます。

ちがう いのちは 闇の中の またたく光だ!!(p.201)

「光じゃない、またたく光だ!」という主張です。ただ光り続けるのと違って点滅する光においては、そこに進化(というか変化?)が期待できます。一度消えてまた点灯するとき、それは以前と別の何かに変わっている可能性があるわけです。生命の本質とは変わることであり、そのためには個体の死が必要なのだというのでしょう。死を逃れていつまでも生き続けようとすることは、変化を拒否することであって、可能性の否定でもあります。

旧世界の知識を継承するために作られた不死の人工生命とその技術で延命されている墓所に仕える博士たちも、皆この意味で生命への冒涜を行なっているとみなせるのでしょう。

生命は崇高なものであって、それはどんなきっかけで生み出されたものであってもそうだ、という主張もされています。あまりに崇高なものなので、人工だとかそうでないとかは関係ないくらいだ、というカソリックの人が聞いたら憤死しそうな超過激思想です。出発点がどうであれ「変化するもの」という生命の本質さえ備えていればそれは立派に生命として機能して崇高なものとなっていく(可能性を持つ)が、変化を拒否するものは(つまり不死を願うようなものは)「生きるとは何か」を知ることもないみにくい存在に堕すのだ、ということをいっています。

こうした思想の是非はともかく、「戦争の悲惨」がどーのこーの、だとか「ファシズムがー」とかいうレベルの物語ではないことは明らかでしょう。大体「浄化」による「世界の再建」を全否定しているのに「ファシズム」なわけもないでしょうに。真逆といってもいい考え方ですよね。

『ナウシカ』の世界では、一旦文明が大々的に滅びてから千年の間に性懲りも無く二度もカタストロフィを起こしてしまうなど、人類は救い様の無い愚かさで過ちを繰り返しています。しかしこうした過失で自分たちの生息可能域をせばめてはいるものの、少しだけまともになっていっているような描写もあります。『漫画原論』からの引用にあった「ユートピア的な小国寡民の田園」というのは単に「風の谷」のことを指していると思われますが、ほんの少しずつではあってもそういうまともな人々(他にも「森の人」など)を生み出していっているという意味で、希望ある未来を描いているともいえそうです。

諄いようですが「ファシズム」の臭いは全くしませんけど(笑?)。

Eliza

人工知能の話を出したこともあって、ふと検索するとこんなの↓あるんですね。

>> Eliza

もう少し最近のものだとこんなの↓もあるようです。

>> Jabberwacky

とりあえずそんな感じで。

September 2011

September 29 Thursday 2011

科学と詩

詩論と批評』という本でリチャーズについて言及している部分があります。

わたしが訳出した『科学と詩』は、I. A. Richards; Science and Poetry (Routledge & Kegan Paul, London, 1935)を底本としたものである。この本の初版は一九二六年に出たが、これが詩人や批評家のあいだにさまざまな反応を引きおこし、ときに誤解や誤読をまねいた。(略)しかし改訂版も誤解や誤読を一掃するというわけにはゆかなくて、リチャーズの意志によって絶版にされてしまった。それが三五年を経過した一九七〇年の秋に、突然復刻されてふたたび姿をあらわした。すなわち、Poetries and Sciences (W. W. Norton, New York)である。(p.63)

著者はこのあと自分が訳した『科学と詩』が1971年出版なのに前年に出た1970年復刻版を底本としなかったことの言い訳をするのですが(←笑?)それはさておき上記引用部分では原書のタイトルが変化しているのがわかります。初版と35年改訂版では『Science and Poetry』だったのが復刻版では『Poetries and Sciences』です。なんでしょうね『男と女』というタイトルで誤解を与えたので『女たちと男たち』に変えたみたいな感じでしょうか(←違うと思うぞ)。

Science and Poetry:二つのものの対立、葛藤、分離を印象づけ、神学的政治論文とも受け取られかねないからダメ
Poetry and the Sciences:創造的活動と、それに対応する学問分野や取り扱い方の話と思われるからダメ
The Poetries and the Sciences:二つの領域に対する概観と秩序付けを行なう野心的課題だと印象付けるのでダメ
Poetry and Science:詩も科学も多種多様な概念がある、という事実にそぐわないからダメ

リチャーズが序で言及したという内容についての解説を適当に意訳してまとめてみました。英語の単複感覚に疎いのできちんと理解できるわけではありませんが、別に難解なことは言ってないように見えます。

また論文などでもそうですが(私の実体験からいっても)激しい誤読をする人というのは、題名に含まれる語を自分が知っている何か別のテーマと関連づけて解釈し、その解釈から期待した内容と違うことを(「この論文/著書はオカシイところだらけだ!わけわからん!」といって)批判してくる場合が多いように思えます。この対策は妥当だったんじゃないでしょうか。

ところが『詩論と批評』の著者は(1970年版を貶める必要があるからか:笑)こうした姿勢を批判します。批判点は簡単にいえば「リチャーズの言っていることは複雑で理解が面倒だからダメだ」ということのようです。

新しい標題に対する理由づけだけでも随分と複雑である。すくなくとも私自身にとっては卒読で理解がおよぶというような性質のものではない。(略)むろん、一九七〇年版の「解説」は、誤解、誤読をふせぐために付け加えられたものではあるが、いわゆる理解を助けるための世の常の解説とは性質が異なり、概念規定をさらに精密化して、受け取られるべき意味の許容範囲を限定するという種類のものである。(略)定義は単純であってはじめて定義としての効力を発揮する。精密化すればするほど、定義づけのために用いる二次的、三次的概念をつぎつぎに定義してゆかねばならなくなり、定義されるべき発端の対象の概念はその奥にかすんでしまう。

こういう批判(?)をする人がどういう思考をしているのか以前は全くわかりませんでしたが、今は少しだけわかります。

おそらくこの人は文章の「意味」というものは既存の単純な概念(を指示することば)へと収斂されていくべきものだ、と考えているんだと思います。「わかる」ということは、そうしたもののいずれかに対象が分類整理されることだと認識しているのでしょう。この言語観(?)でいえば、よき「解説(解釈)」というのは適当な範囲の文章を次々と切り出しては(読み手がよく見知っている少数の)単純な概念へと手際良く仕分けしていく(言い換えていく)、というものになります。この仕分けられた先のラベルのようなもの、のことを「意味」だと認識しているんですね。

緻密に組み上げられた論や複雑な構成を持つ小説などに対して「それって要するにどういうこと?」「ひとことでいうと何?」などという質問(感想)を述べる人がいますが、これもまた上記のような発想からなのだと考えられます。

意味の意味

さて「意味」といえばリチャーズの仕事でおそらく一番有名なのは『意味の意味』です。けれど私はいまだに読んでいません(←!)。しかも中身についてあちこちで頻繁に言及されるようなものなら「こんな話かな?」と想像くらいはできるのですが、これについてはそうもいきません。

たとえば「ideas→meanings→sentences」というように変化していった言語論の対象について概観した『Why Does Language Matter to Philosophy?』でもこの本への言及はほんのわずかですし、好意的でもありません。

We say nothing of the explosive theories of meaning that animated literature and the arts. It is no wonder that by 1923 C. K. Ogden and I. A. Richards could separate sixteen fundamentals meanings of 'meaning' in their book, The Meaning of Meaning . (p.171)

文学などでの雑多な意味論については無視する、と言っています。『意味の意味』では meaning が16通りに分類されちゃったりしてるぐらいだしシカトしても当然だよね?(嘲笑)みたいな感じでしょうか。

では無視しなかったのはどんな論かというと、それはフレーゲに端を発するタイプの意味論です。ドイツ語ではなく英語でいえば meaning と sense を区別する理論で集合論や命題論理学を使います。真理値意味論のことですね。

これはラッセルやウィトゲンシュタインの理論へと引き継がれていくものですが、そこで彼等が扱う meaning とそれ以外の連中が扱っているつもりの meaning は別もので、後者のはたぶん sense に分類されるのだ、というようなことが書いてあったように理解しています。が、違うかもしれません(←!)。

適当に言葉を置き換えてみると、 meaning とは 字義通りの意味(literal meaning)とか denotation とか呼ばれるものに近い概念で、sense は 文脈上の意味(contextual meaning)とか connotation なんかの側だと思います。文学や芸術が問題とするのは通常後者(のみ)ですからそれに基づく意味論は哲学の興味の対象外なんですね、おそらく。

また『意味の意味』の副題には「A Study of The Influence of Language upon Thought and of The Science of Symbolism」とありますから、原題の meaning は symbolism と関係があるような、つまり真理値なんかとは無縁な何かのことなのでしょう。

>> 文化記号論 I

『意味の意味』についてググってみたら上記のWebページに少しだけ言及がありました。

オグデン&リチャーズの記号三角形は、シンボルと指示物 (referent) との関わりに直接性がないことを明示し、記号と物との関係を端的に示した点で評価されている。

パースの所謂「三項理論」(representamen, object, interpretant)の三角形と同じようなものに見えます。しかし対応するこちらの三項(symbols, referent, thoughts/reference)では symbols と referent の間を短絡する関係性はない、必ず thoughts/reference を経由しなければならない、としたところが改良点のようです(しかしそれなら三角形じゃなくて折れた直線なんじゃないかと思うのですが...)。

>> The_Meaning_of_Meaning

また上記リンク先の記述によればこれらは context を考慮にいれた関係性でもあるようです。ただ残念なことに引用が断片的すぎることと私の英語力の不足により確定的なことは読み取れません。

さきに例証した種々の種類の記号場(sign-situations)を考察すれば、人々が相互伝達用として、また思想の道具として用いる記号は、特殊の位置を占めることが分かる。これらを明瞭な名称のもとに一括すれば便利である。われわれは語・語の配列・心象・身ぶり・それに絵画または物まね音声のごとき表示等の一切を象徴と呼ぼうと思う。象徴が無数の、予想もつかぬ方法で人生および思想に及ぼす影響はまだ十分に認められていない。[p.66]

これは『意味の意味』からの引用らしいですが何やら話がアヤシゲです。「心象」は心の中にあって他者には知り得ないもの(観念=idea)なので(テレパシーが使える超能力者を除いて)「象徴」としては使えないんじゃないのかな。これって原文では単に image って書いてあったんじゃないかしらん。それにしても「記号 sign」と「象徴 symbol」の使い分けはどうなっているんでしょうか。contextual に用いられた sign のことを symbol と呼んでいるのかもしれませんが、いかんせん想像の域をでません。

Basic English

『意味の意味』の内容について別方面からも(ネット上で:笑)情報を漁ってみます。それはリチャーズたちのもう一つの著名な業績である Basic English に関するあたりです。

>> リチャーズの略歴

これによると1923年から1928年という10年にも満たない短い期間だけ文芸批評の仕事をして、1930年以降は Basic English の研究と普及に尽力していたようです。

>> Basic English

上記リンク先は同じサイトにある Basic English の説明です。使用語彙数を850語だけ(実際にはもう少し必要らしいですが)に絞り込んだ英語の subset だというようなことが書いてあります。

ベーシック・イングリッシュをまとめあげた C.K.オグデンはベーシックに「動詞」はないと宣言し、そのかわりに16の基本的な「動作語」があります: go, come, give get, take, put, make, keep, let, see, say, send, be, do, have, seem. 動詞がないことで文法的にかんたんになりました。Buy-bought, teach-taught のような語形変化を覚えなくても get something でよろしいし、He teaches(taught) English ではなくて He is(was) teaching English とか He is(was) a teacher of English のように "-ing, -er" を付けていえるという規則があります。

これですと簡略化はしていてもピジン英語のようなものとは違って文法規則等々が通常の英語と異なる事は表面上露呈しません。ベーシック英語習得後に語彙数を増加して文法規則の制限を徐々に緩和していけば、学習者が完全な英語話者と同じ状態に段階的に近づいていくことも可能でしょう。その際に一旦は習得したのに捨て去らねばならないような、無駄だったり障害となる学習項目もありません。また極端な語彙数制限とそれに伴う文法規則の制限がありますので習得自体が極めて短期(6〜7週間程度)で済むそうです。

こうして利点を並べてみると実に画期的な方法なはずですし、企業内公用語が英語になるなど劇的な環境変化に直面している現代日本社会などではもっと話題にされても良さそうなのですが、そういう動きはありません。

圧縮語を要素に分けて表すときに起きることは, 感情的なもやもやが消えてしまうことです。たとえば "bitch" は女のひとの悪口をいうときに使われますが "female dog" には何の悪いこともありません。(略)感情語を大幅に整理することもベーシック成立の過程で起こりました。(略)ベーシック・イングリッシュはC.K.オグデンによって考案されたというよりは, 彼とI.A.リチャーズが共同で『意味の意味』(1922)を書いている過程で「発見」されました。語の定義をしようとすると, ある特定の少数の語がくりかえし, くりかえしあらわれてくるのです。これらの少数の語を整理したら, それだけですべてのことを言い表せる普遍言語の体系が作れるのではないか, という思いが浮かんできたのです。1928年頃から部分的に発表され, 最終的な形をとったのは1931年でした。『意味の意味』は意味を指示的用法と感情的用法に分けたことが画期的でした。その執筆の動機としては「ことばの魔術」による人類の破滅への危機感でした。ベーシックはそのような背景から生まれました。

bitch が「圧縮語」だというのは female dog という具合に要素の複合によって「分解(置き換え)」可能なものだという意味です。動詞のほとんどは16の基本動作語で置き換え可能という意味でほぼすべて「圧縮語」だとされて(動詞としては)削除されます。penetrate は go through 、climb は go up、descend は go down、enterは go in、emerge は go out、leave は go from、approach は go to という具合に分解されると考えているようです。

この「分解」で「感情的 emotive」だったり insinuate するのに使っている部分がうまく削ぎ落とされれば「ことばの魔術」を無効化して(人間が理性的になって?)「人類の破滅」が回避できるのではないか、という思いがあったと説明しています。確かにリチャーズがエリオットと共に批評活動をしていた期間というのは第一次大戦の衝撃によって「人類の破滅」が現実的で切実な問題となった時期です。彼の「科学主義」は、この暴走を食い止めるための方策であった...のかもしれません。

ですが、私はもう少し違った印象を持ちました。

リチャーズがやろうとしていたのは思慮分別を欠いた科学の濫用による大量殺戮や、社会とそれを構成する人々の心の荒廃に呼応してすっかり無力となり機能不全に陥った「ことばの力」を再生することだったんじゃないかと思えます。この再生において必要だったのは「因習的な」感情的用法部分の削除であって、感情的用法そのものや「ことばの魔術」をすべて排除しようという人間不在の狂信的科学主義は唱えていないはずなんです。

意味の全体主義

冒頭で触れた『詩論と批評』に戻ってリチャーズの科学主義についてどう言っているのか確認してみます。傍線は引用者がつけました。

リチャーズの批評的立場は科学主義と呼ばれ、心理学的な、主としてゲシュタルト心理学を援用した概念装置によって、詩的経験を解明しようとするところに特色がある。人間にはよきゲシュタルト、つまりよき形態を求める本能的傾向があって、雑多な経験が統合されてよきゲシュタルトを構成するとき、そこに美を感じると言う。これが前提となる原理である。(略)であるから彼は、詩的経験、芸術的経験というものを、ロマン主義の系譜を引く批評家やドイツ観念論の流れを汲む美学者のように、何か霊感によって与えられるもの、何かアプリオリな特別なもの、つまり日常的経験とは異質の、異次元のものとは考えない。ここにリチャーズの美学の革新性がある。芸術的経験と日常的経験と、これら同質の二つの経験の差は、その経験がよきゲシュタルトに統合されているかどうかの差であるにすぎない。(略)そこから当然、彼の推奨する作品が、現代詩ならT・S・エリオットのものが随一となり、また一七世紀形而上詩派やエリザベス朝劇詩人のものを高く評価するという結果となる。こうした評価の傾向は、反ロマン主義的立場から出発したエリオットその他のイギリス現代詩の方向を助長する結果にもなった。一方、アイロニーの有無を識別し、対立する衝動の調和の実際を見きわめるには、詩篇を構成する刺激源としての具体的な言葉を、言葉の連結の仕方を、その効果を分析する以外に方法はないわけで、ここからリチャーズの科学主義が、新批評(ニュークリティシズム)と呼ばれる分析批評の成立に道をひらくことになる。(pp.65-67)

いうまでもないことですが(←笑?)著者はこういうリチャーズのあり方には無駄に批判的です。自分で詩も書いているようだが所詮はそういうものの読者/享受者にすぎない(ので理解が浅い?)とか、そういう点でエリオットには遥かに及ばない云々。

そういう感想(?)は放っておくとして、興味深いのは「詩篇を構成する刺激源としての具体的な言葉を、言葉の連結の仕方を、その効果を分析する」方法を使っているという指摘です。ロマン主義のような虚仮威しの「ことばの魔術」演出には興味がなく、(おそらくは)ありふれた日常の語彙と経験を素材としつつも「言葉の連結の仕方」を工夫してつくり出された詩的表現に注目することが彼の「科学主義」なのだと理解できます。要素の連結によって部分には還元できない「よきゲシュタルト(=全体的構造 gestalt)」が生み出され、それがその詩の持つ「意味」だということなのでしょう。

これについては先述した『Why Does Language Matter to Philosophy?』において著者のハッキング(←人名です:笑)が攻撃対象とするクワインの説に同じような考えを見いだすことができます。

Meanings, Quine implies, are a hoax. All we need are sentences and their interrelations. I have often quoted his aphorism to the effect that knowledge is a fabric of sentences. It is worth noting that it occurs at the end of a criticism of Carnap's version of conventionalist theory of mathematical truth: the fabric of sentences is pale grey, 'black with fact and white with convention. But I have found no substantial reasons for concluding that there are any quite black threads in it, or any white ones.' The drive from meanings to sentences, although now a general thrust in much philosophical writing, is, as here, usually commenced with a specific application to a problem of philosophy rather than from reflection on meaning in the abstruct. (p.178)

傍線は引用者が付けました。hoax はデッチアゲのことですね。sentences and their interrelations がすべてだとしています。語ではなく文についての話になっていますが、リチャーズと同様の考えだといってよいでしょう。これを比喩的に言い換えた the fabric of sentences は日本語なら「テクスト」と呼べば良い概念のことだと思うのですが英語で単に「text」と書くと誤読可能性が飛躍的に向上する危険があって避けたのかもしれません。 fact と convention の対比があるのですが、この convention というのは illocutionary force の効力が conventional だというような感じでの用法でしょうか。カルナップの conventionalist theory of mathematical truth について全く知らないので、よくはわかりません。

ですが、いずれにせよ個々の記号が指し示すもの(黒色)と、それら記号の関係を規定するコード(白色)の両方によって表現されたものが(構造を持って)渾然一体となった knowledge (薄灰色)を生み出し、これが sentences から読み手が得る「意味」なんだという主張なのだと思われます。単に grey じゃなくて pale grey と言っているところもポイントなんでしょう。

非の打ち所のない説だと思うのですが、ハッキングはこうしたクワインの meaning 批判を「間違いだ」と断じています。

Quine told us that translation is too easy, for there are too many translations between languages or theories for 'sameness of meaning' to have any bite. Knowledge consists in the fabric of sentences itself, not in what those sentences mean. Feyerabend reaches a parallel conclusion from the opposite direction. (略)Davidson, it may appear, strikes the balance between these two extremes. In a calm and measured tone he tells us that both panic stories are mistaken. In English one often says that so and so means such and such, that 'patricide' means a person who kills his or her father. How absurd to suppose that there is no sameness of meaning! Davidson revives meaning by proposing a theory of translation located in a theory of truth. (p.179)

傍線は引用者がつけました。「patricide(父親殺し)」と「a person who kills his or her father」との間に「sameness of meaning(meaning が同じであること)」が成立しないとはいえないはずだ、として Davidson がクワイン説を否定している旨説明されています。クワインへの反論に限っていえば、言い換え(=translation)がこのパターンしか存在し得ないという主張なんじゃないかと思います。つまり「the fabric of sentences itself」の構成要素であろうとなかろうと常に同じであるような meaning はあるじゃないか、ということでしょう。無数の translations が案出可能である故の不確定(the indeterminancy of translation)を否定してるんですね。

クワインと Davidson はそれぞれ違うものについて論じているために噛み合ってないのだとは思うのですが(クワイン支持派として)一応この反例(?)にも応じておきます。具体的には Davidson があげた a person who kills his or her father 以外で patricide との間に sameness of meaning を成立させるような事例を簡単に見つけ出せればクワイン説の正当性が保持されることになるはずです。

それにしてもカルナップ→クワイン→Davidsonという師弟関係の中で師を否定する試みが繰り返されているのはどういうことなんでしょう。

以下は『The making of the Georgian nation』からの引用です。

The bloody climax of this maneuver occured in March 1605. Aleksandre arrived in Kakheti, accompanied by his son Konstantin, a Muslim who had been raised in Iran. Within days both Aleksandre and Giorgi lay dead, the victims of Konstantin's loyal execution of the shah's orders. Konstantin was made king of Kakheti, and Safavid influenced seemed secure. But the local nobles, inspired by Queen Ketevan, widow of Konstantin's older brother, David, revolted against the patricide, who was killed in the fighting. Ketevan's son, Taimuraz I (1605- 1664), was crowned and began a long and difficult reign in conflict with his Safavid overloads. (p.50)

傍線は引用者がつけました。Aleksandre と Giorgi のふたりが Aleksandre の息子でイラン育ちのイスラム教徒である Konstantin の策略(?)で Kakheti という場所におびき出され、シャー(イラン国王のことですね)の手下によって1605年3月に抹殺されたということのようです。これによって Konstantin は Kakheti の王になり、サファヴィー朝の支配下に入ったように見えたと。けれど地元貴族たちが Konstantin の兄の未亡人である Queen Ketevan に煽動されて叛乱を起こしたときに the patricide = Konstantin は戦闘中に殺されて Queen の息子がまんまと王位についたがすごく苦労したとかなんとか。グルジアの歴史について全く無知なので何が何だかよくわかりませんけど。

さてこのとき Konstantin は a person who kills his or her father なんでしょうか。たぶん直接手を下したのは the shah's orders の誰かですね。「法隆寺を作ったひとは?」「大工さん!」みたいな話ですけど。いやでも発案して命令したのだってよく考えれば Konstantin じゃなくてアッバース1世でしょう。

また以下のような例もあります。引用は『The Social in Question: New Bearings』からです。傍線は引用者がつけました。

My treatment of the genesis of the nation state, untimely plucked from the womb of the Enlightment rather than germinated out its seed by design, follows Freud. The primal patricide of modernity, as I describe it here, constitutes a murder of the 'Enlightment Project', the destruction of the international republic of letters by way of the birth of the nation state, conceived as a form of republic whose members are bound together in a quite different way. (p.64)

ここだけ読んでもなんのことやらよくわかりませんが The primal patricide of modernity の patricide は a person who kills his or her father でないことは確かです。modernity は Aleksandre と違って人間ではありませんので当然誰かの父親でもあり得ません。そして「殺害者」じゃなくて「殺害行為」のことを言ってますね。

引用部分の前にはフロイトの説だとして「ユダヤ人によるキリスト殺害の前にもモーゼ殺害というメシア殺しとしての primal patricide があったが忘れられている」云々というものが紹介されており、それとの対比で「国民国家の出現による啓蒙運動プロジェクトの殺害という進歩主義(?)殺しとしての primal patricide があったのだ」と主張しているようです。比喩だから何でもアリなのかもしれませんが、父なのに子宮を持っているっぽいのは気になります。それとフロイト説での使用についても(信じている宗教によって理解は変わると思いますが)「父殺し」は比喩です。

ところで sameness of meaning の問題については Basic English を使ってみることでわかりやすくなるんじゃないかと思えますので以下で試してみます。

「Oedipus is a patricide」の patricide を Basic English で言い換えればたぶん Oedipus is a person who put his father to death になりそうです。「意味」の同一性は保たれてるともいえますが particide が含み持つニュアンスがかなり消失変化してしまうのも事実でしょう。Konstantin の場合なら the person who was joining the nation at war など、その地の王に値しない人物であるというニュアンスの言い換えバリエーションが多数考えられます。そのうちのどれを使っても意味の同一性は保たれるだろうとは思いますが、変質するとも予測できます。と、いいますか端的にいえばあの文脈では the patricide は Konstantin のことです。

the primal patricide of modernity の particide についてはどうすればよいでしょうか。もはや部分的な言い換えでは対処不能です。全体を見渡し「文脈」を広く考慮しなければいけません。どうやら18世紀の啓蒙主義時代にフランス語を共用語とする文通ネットワーク(通称「文芸共和国 respublica litteraria」)がヨーロッパには存在しており、そこでは参加者の身分、宗教、国籍の違いなども捨象されて自由で理性的な雰囲気が支配的だったそうです。これが国民国家成立に寄与したのだが...という話らしい。

The Basic Dictionary』を片手に変換すると以下のような感じにはなるかもしれません。

The Enlightment Project made the nation state but the second put an end to the first. It seems that this process was the first step of modernity's end. The details are that the nation made a change to the connection with others by letters though this free network made the nation state, and then the international republic of letters went from view.

patricide がどんな場合にでも a person who kills his or her father という概念を指し示すと主張することには無理があります。何かが何かをこの世界に出現させたと信じられている状況下にあって、出現させられたものが出現させたものの世界からの消滅に何らかの関与をしたとみなせるとき、それを「父殺し」と表現することが可能な場合も有り得る...くらい「ぼんやり」したことしか言えそうにありません。言語に「レトリック rhetoric」機能が備わっている以上、文脈に全く依存しない「意味」の定義は不可能なのです。

これは詩がわかる人間には常識以前の問題なのですが、そうではない人間にはどんなに説明しても理解させることができないことでもあるようです。「詩がわかる」という言い方もずいぶん乱暴ですけれど、とりあえずそういう風にしか表現のしようがない能力の話なのでしかたがありません。

リチャーズの詩は読んだことはありませんが Basic English を使って書いた 『English Through Pictures』からだけでも詩的才能は十分感じ取れます。クワインもまた詩人なんだそうです。ハッキングはここで引用した著書の時代(1970年代前半)には全く詩のわからない人間だったんだと思いますが、現時点では大丈夫そうです。少なくともマラルメの詩は読んでいます。Davidson はピアノを弾いたりドラマの台本を書いたりはしたみたいですが、たぶん詩は全く駄目だったんじゃないでしょうか。

詩中での語彙の選択や使用傾向、一つの詩の中での語や句の連結(と非連結)や配置が醸し出す関係性、その詩の外側で使われる語や句との関係性、そうした一切によって総合的に読み手の心中に沸き上がって来る「なにか」がその詩の「意味」です。この「意味」は範囲不定の文脈に依存し、読み手の状態によっても常に変化するため輪郭が定まりません。

よって全体を部分へと還元していく手続きを押し進めて最終的に構成要素となるすべての命題を真/偽のいずれかに分類処理してしまうという「科学的」方法による詩の分析は不可能です。詩は rhetoric を殊更強調した特殊な使用形態ではありますが、通常の言語使用と全く別のルールに則っているのではありません。そうであるのに詩の分析が不可能であるのなら、その分析法は言語一般においても当然機能し得ないはずです。「意味」とは meaning であって、それは命題の真理値が真/偽のいずれを示しているのか確定することである、というような理論は hoax としかいいようがありません。

クワス問題の位置づけ

リチャーズは『科学と詩』の復刻に際して poetry と science という2語の連結を以前のものと変更し、その際の思案について説明をしていました。これは非真理値意味論に基づいた誠実かつ正当な行為です。しかし『詩論と批評』の著者にはその行為は無駄なものに見えていました。さほど厳密ではないものの、おそらく真理値意味論的な見方をしていたのだと思われます。

フレーゲ、カルナップ、ラッセル、ウィトゲンシュタイン(前期)、Davidson、ハッキング(1970年代バージョン)らをはじめ、多くの(そして錚々たる)哲学者たちにとっては真理値意味論こそが科学的かつ有効な理論であると認識されていました。このため言語研究において数理モデルを導入する際には基本的に彼等のものが使われてきたという歴史的経緯もあります。しかしながら、そうした手法に深く通じていたクワインは真理値的意味(meaning)を hoax だと斬って捨てていました。

knowledge consists in the fabric of sentences itself だとか gestalt が「意味」だという主張と、究極的には「意味」とは「真/偽」のいずれかに還元されるものだという理念の間には埋めがたい根源的な認識の相違があります。この差を生み出しているものは一体何なのでしょうか。たぶんそれは言語についての根源的イメージだと思われます。「ことば」とそれが「指し示す対象」との関係をどのようなものとイメージしているか、ということです。

現時点では複雑に構築された理論である真理値意味論も、その出発点、原初のイメージを遡って行くとそこには「ある単語名を聞いて、それを指差す」という素朴なモデルがあるようです。「ネコ」って何?と聞かれてたまたま近くに猫がうろついていればそれを指差す行為によって「ネコ」の「意味」を示したことになる、というイメージです。しかしこの原初の意味モデル(?)には誰でもすぐに気づくような問題点が山のようにありますからそのままでは破綻してしまいます。指し示す対象が物体とは限らないことから「概念」も扱えるように理論を練り直さないといけません。ひとつの単語だけではなくそれらが組み合わさった文(命題)の形態をとるとき、それが指し示す対象とは何なのか、等々を明らかにしていく必要もあります。ここでその詳細について解説することは避けますが、そうした拡張と改良を積み重ねて現在の姿があるのだと思います。

私が上で簡単に書いたようなことを『意味と他者性』では以下のように説明しています。下線は例によって引用者がつけました。

さて、規則が行為を妥当なものとして特徴づけているのだとすれば、これに並行して行為は、自らが志向する対象を、自らにとって妥当なもの・適合的なものとして同定しながら遂行されていることになる。たとえば、68+57 を計算する行為にとっては、「125」という記号表現は妥当で、適当なものである。あるいは、マナーに則って食事をする者にとって、目前の薄っぺらい金属は、人を傷つける凶器としてではなく、肉を切るナイフとして同定されていなくてはならない。このような、対象の、行為にとっての妥当な同一性(identity)---「それが何であるか」---を、対象の(行為にとっての)「意味(meaning)」と呼ぶことにしよう。意味は、規則に見出した二つの性格---無限性・先見性---に対応する。次のような性質を有している。第一に、意味を通じて、対象の無限の具体的な現前が、単一の同一性に下属することになる。あのナイフもこのナイフも、あのときのナイフもこのときのナイフも、同じ「ナイフ」として同定されるわけだ。つまり、意味において措定された同一性は、対象が置かれている特定の場所、特定の時間との結びつきから解放された一般的な何ものかとして現れることになる。第二に、意味は、対象の具体的な現前に先立って決定されていた何ものかとして現れる。つまり、意味は、いわば先験的な次元に存在しているかのように現れざるを得ない。(p.7)

「行為」がどうのこうのと書いてあるのでわかりにくいですが、「ことば」の話と考えてください。最初の傍線部にあるように「ことば」がある「規則」に従って指し示す対象が「妥当な同一性」を保持するとき、それを「意味」と呼ぶのだといっています。二つめの傍線部はその同一性は「こまけえことはいいのよ!」精神で扱うというような話だと思われます。たとえば「私は毎朝同じ電車に載って通勤します」といったときにその車両が前日と全く同じものであるかどうかは問わないというようなことです。

重要な点は「妥当な同一性」です。これは原初イメージ(指差し)の痕跡で、ここに執着するのが真理値意味論の特徴だと私は考えます。「ネコ」という語に呼応して指差した先にいたはずの猫(←対象の無限の具体的な現前の一つ:笑)が勝手に狸に入れ替わったり、そもそも違う対象を指してしまうことは「規則」違反であり妥当ではない行為とみなされます。こうして「妥当な同一性」が保持されたときには規則に違反していないので真理値を真とし、保持されないときには偽とする意味論が成立するわけです。傍線はつけませんでしたが、このとき「意味」が「先験的」である(つまり「規約」は先に決まっている)という指摘も重要かもしれません。

上で引用した大澤真幸の論は『ウィトゲンシュタインのパラドックス』においてクリプキが展開した論を踏まえたものです。この著書名となったパラドックスとは何かというと以下のようなものです。

『探究』の第二〇一節において、ウィトゲンシュタインは次のように言っている、『我々のパラドックスはこうであった。即ち、規則は行為の仕方を決定できない、なぜなら、いかなる行為の仕方もその規則と一致させられ得るから。』この本のこの第二章において、私は私自身の仕方で、問題のこの「パラドックス」を展開してみようと思う。おそらくこの「パラドックス」は、『探究』の中心問題である。(略)それは、哲学的懐疑論の新しい形である。と見なされ得るのである。(p.11)

何が「パラドックス」なのかといいますと「何をやっても規則に一致する(オレがルールだ!の)とき、規則は何をするかについて関与し得ない(オレはルールを守るつもりだぜ!とはいえない)」とか「いかなる場合でも行為が妥当な同一性を保持し得るなら、行為の妥当性という概念は無意味になる」みたいな感じでしょうか。「どんな命題でも真にできるとき、真理値意味論は成立し得ない」ともいえます。

おっとっと、間違えました(←棒読み:笑)。ウィトゲンシュタインは条件をつけていません。だから「いかなる場合でも行為は妥当な同一性を保持し得るので、行為の妥当性という概念は無意味だ」というのが正しい。「どんな命題でも真にできるから真理値意味論は成立し得ない」っていってるんですね。これは先述したクワインの sameness of meaning に関する主張とよく似ています。

クリプキはウィトゲンシュタインのパラドックスを「懐疑論」の問題と捉え、「プラス」と「クワス」という演算を使った論を展開して検証していきます。これは例えば、私が「68+57」の(規則に従った妥当な同一性を保持する)答えは「125」だと言ったときに、懐疑論者が「5」だと言って難癖をつけてくる...というような話です。私が今まで加法(プラス)演算だと思っていたものは実はクワス(68クワス57のときは5で、それ以外はプラスと同じ)演算である。なのでその規則に従って「5」と答えるべきだ、というのです。私はこれに対して「自分がいままでクワスではなくプラス演算をしてきた事実」を証明しなくてはいけません。また「5」ではなく「125」が正当な答えである理由も明示しなくてはならないのですが、それらは不可能で云々...みたいな話です。

この懐疑論者を論破できないと「(先験的な)規則に従う」ことが無意味化され、それに従った「妥当な同一性」も意味のない概念となります。これが「哲学」上の大問題であるということで上記引用の2冊の著書(他には『クリプキ ことばは意味をもてるか』等々)では如何にしてこの懐疑論者を論破するかの考察が展開されていきますが、すっきり解決は出来ていないようです。哲学界での扱いは「ちょっとは面白い話だけどクリプキはウィトゲンシュタインを誤読しているんだよ(つまりこんな問題は存在しないんだよ!)」ということらしいですが、よくは知りません。

哲学界の部外者である私から見ますと、これは単に(誤読であろうとなかろうと)割と誠実に真理値意味論を突き詰めていった結果、リチャーズやクワインの論では出発点になっている場所に到達しただけなんじゃないかと思えます。つまり「意味」は関係性によって如何様にも変化するものだけど、それで何か問題でも?ということです。

言語における規則はそれ自身が言語の使用によって形成されていくものでもあるので「ウィトゲンシュタインのパラドックス」は問題にはなりません。個別の文章においてもそうです。語や文の配置から読み取れる関係性を含む全体を意味だと考えるとき、その関係性には自らを拘束する何らかの規則(性)が生じますが、常に新しい語や文が付加されていくことでそれは変化を続けていくのです。規則をつくり出しつつ同時にその規則に従いもする、その運動全体が「意味」なのですから「懐疑論者」が規則の先験性について何を言おうと影響ありません。

問題があるとすれば、そのようなものをどうやって「科学」が扱えるのか?というあたりでしょう。ハッキング(1970年代)がクワイン批判をしていたのもそうしたあたりが動機だったのかもしれません。代替手段が無い状態で真理値意味論を否定してしまえば観念論に逆戻りしてしまう危険があります。クワインの主張が無責任なものに見えた可能性があるのです。

まとめと雑感

ランボーの詩で(英語でいえば) To a Reason というのがあります。引用は『The Illuminations』からの一部抜粋です。

One tap of your finger on the drum releases all sounds and begins the new harmony.
One step of yours, it's the levy of new men and their order to march.
Your head turns aside: the new love! Your head turns back, -- the new love!

よくはわかりませんがササッと眺めると「小さな一つのきっかけが新しくて大きな(関係性の)変化を引き起こすイメージ」は読み取れるような気がします(そうした点でも我々の意味論にふさわしい詩句かな?と思えます)。ここまで散々述べてきたようにこれを真理値意味論で分析しても無意味ですので語や文(句)の「関係性」に着目して試しに読み解いてみます。

One tap が the new harmony を導き、 One step が the levy of new men をつくりだすのだと述べて、小さな変化が新しく大きな何かに変わるという関係を示しています。そして二行目に levy や march という語が使われていることで一行目の内容が軍楽隊のことであったかのように事後的に意味付けられます。しかし三行目の your head turns aside/back 部分は軍隊の回れ右的所作をイメージさせつつも、それらが the new love だと述べられることで軍隊イメージに合致させるという「規則」がここで早くも破れたかのようです。軍隊に縁のある語彙ではないので唐突な印象がするのです。しかし各行に一つの new なものを入れるという規則性は保持できており、これはこれでふさわしいともいえます。全体として「規則」がより整合性を保つように解釈すると、これは軍隊のかけ声や命令の復唱であるかのように理解できるのかもしれません。つまり横を向く事や後ろを向くことが the new love だといっているようにも、軍隊的基本動作のあと叫んでいる(命令されている)ようにもみえるのです。また通常「首を横に向ける」動作は「拒否」を意味するため、それが love であるというのは価値の転倒を表したともとれます。最初の二行にある新しい音楽と軍隊は、単に新しいのではなく従来の価値観を大きく転倒させた何かのことで、三行目にはそれらを遡及的に印象づける役割があるのかもしれません。動作の担い手については、一行目では手、二行目は足、三行目では頭(軍隊的動作だと身体全体で turn すると思われる)というように言及される部位が変化している点も見逃せないでしょう。この関係性というのは...等々。

ほんの僅かな分量のテクストですが「意味」を汲み取るのは大変な作業です。「単語に対応する何かを指差すことが意味の原イメージである」人間と、「こうした詩テクストの緩んだ簡便なものが言語の一般形態である」という認識から始まっている人間との間で言語観や意味論に関する衝突が起きるのは当然かもしれません。

「藁人形」が人間の雛形であると考えていくらそれに基づいた理論を精緻にしていっても(それはそれで人間理解の役に立つ部分はあるのかもしれませんが)人間自身とは無関係な何かの研究にすぎないように、真理値意味論は実際に使用されている言語現象に対しては無関係なんだと思います。それはここまで見てきた例の通りです。この説がそれなりに支持されてきたのは、彼等の説の出発点が所謂「ギャンブラーの誤謬」的に正しいと錯覚されやすいものだったからかもしれません。

ところで「ギャンブラーの誤謬」でググってみると以下のリンク先に説明がありました。

>> 詭弁術の考察:ギャンブラーの誤謬

ここに出ている「ルーレットのギャンブラー」の誤謬は、より簡単には「コインの裏表」予測モデルで扱えます。直前の試行まで連続で表が出ていると「これだけ表が出たのだから次に表が出る確率は低くなる」と考えてギャンブラーは裏にかけてしまうのだが、これは数学的には間違いだというものです。それまでどんなに表が連続していようと次に表が出る期待値はそれと関係なく常に50%です。

この話はいかに人々が認識において間違った信念を持ってしまうか、という例として語られます。私もそのようなニュアンスでこれを使いました。

しかしたとえばコインの表が100回連続で出たあとの試行でも数学者は次に表が出る確率は1/2だというのでしょうか?ちょっと数学が得意程度で頑迷なタイプの人ならそれも有り得るかもしれません。マヌケなギャンブラーならホクホクして「裏に賭ける」でしょう。でも統計学を学んだものなら(そして故意のイカサマがないのなら)このときは「表に賭ける」はずです。なぜなら(数値計算で確認してないのでアレなんですが:汗)このコインは他の正常なコインと比べて表が出る確率が有意に高いと考えられるからです。そしてたぶんこの場合なら三番目の人がいちばん儲けそうです。

さて、長々(←ほんとに!)書いて来たので唐突にまとめますが、真理値意味論が否定されたあとの科学的手法の位置は統計学を使った意味論で補完できると(つまり観念論には先祖返りしないと)考えられます。しかしその詳細はまたいずれ...。

そんな感じで。

September 11 Sunday 2011

伝統論理学の数学的構造

いろいろやってきたことを整理する過程でちょっと『思想の中の数学的構造』を読んでいたところ「?」となった部分がありました。

つぎに伝統論理学における群構造をしらべよう。(略)以上8個の命題の相互間の変換操作(なにも動かさないという場合、つまり単位元をも含めて)は位数8の群をつくる。しかもこの群は位数4の巡回群1個とクラインの四元群2個を部分群としてもつものである。(pp.96-97)

下線は引用者が付けました。それと文末を句点に変えています。

引用部分で使われている用語を簡単に説明しますと、まず「群」というのは数学の「群論」で扱う「群(group)」です。「単位元(identity element)」は群の構成要素である「元(element)」のうち他の元と演算しても相手をそのままにしておくような特殊な元のことです。群に含まれる元の数は「位数(order)」といいます。

群の種類としては「巡回群(cyclic group)」「クラインの四元群(Klein four-group)」「部分群(subgroup)」の三つに言及があります。

「巡回群」はすべての元がひとつの元の累乗になっているような群のことです。たとえば演算を乗法とするとき「1の4乗根(xの4乗が1であるときの解)」は巡回群(1, i, -1, -i)だと考えられます。iは2乗すると-1、3乗すると-iになり、4乗すると1です。

ちなみにiと-iは互いの「逆元(inverse element)」です。逆元とは、ある元との演算結果が単位元になる元です。1と-1は2乗すると1(この場合の単位元)になるので自身が逆元でもあります。群を構成する元は必ず逆元を持たなければなりません。また元同士の演算結果は群に含まれる元のいずれかでなくてはなりません。この他には「結合法則が成り立つこと」という決まりもあります。

上であげた例、位数4の巡回群(1, i, -1, -i)は「部分群」として(1, -1)を持ちます。単位元は1で、二つの元はどちらも自身が逆元を兼ねています。またこの群の元はすべて-1の累乗で表せますので位数2の巡回群でもあります。部分群の位数は必ず親群の位数の約数です。

あと「クラインの四元群」はこの本の内容について考える際にもっとも重要なものですが、wikipediaには以下のように書いてあります。

>> Klein four-group

Klein four-group (or just Klein group or Vierergruppe (English: four-group), often symbolized by the letter V) is the group Z2 × Z2, the direct product of two copies of the cyclic group of order 2.(略)The Klein four-group is the smallest non-cyclic group. The only other group with four elements, up to isomorphism, is Z4, the cyclic group of order four (see also the list of small groups).

2つの巡回群からつくり出される群で、最小の非巡回群だといっています。引用した際に「Z2」や「Z4」となってしまっていますが、これらは右下に小さく数字が書いてあるもので、数字は位数を表しアルファベットのZは巡回群であることを表しています。他に位数が4であるような群は位数4の巡回群くらいしか無いというようなことが書かれているみたいです(←!)。

あとは...引用部分に「変換」という語もでていましたが、これは群論でいう「変換(transform)」のことではなく普通の日常語の意味だと思われます。私自身もこの文章中で「変換」という語を使いますが、これもすべて日常語としての意味です。一応念のためお断りしておきます。

さて話を戻します。

略した部分には S-P (「SならばPなり」)を原命題とする8つの命題の記号表記と日本名(ex.「原命題の換質」)&英語名(ex.「obverse」)が列挙されていました。伝統論理学については命題列挙部分をのぞくと文庫本で7行にしかならない短い記述だけしかなく、示唆された群については具体的な説明も図示もありません。そういうこともあって初見では下線部で示唆されている内容がよく呑み込めず「?」となったのです。

私が最初にこの記述を読んで思い付いたのは「S/非S」と「P/非P」及びそれらの「前後関係」を表す位数2の巡回群3個からつくり出した群であれば「8個の命題」の構造は表せるのではないか、というもので、それは著者の山下正男先生が位数2の巡回群2個を使って作られる「クラインの四元群」の構造を色々なケースに当てはめ可能であると繰り返し主張していた(上記引用部分もこうした事例列挙の中の一部です)ことからの類推でもありました。「クラインの四元群」の何らかの延長または拡張で対処可能と考えたのです。

この本の中で「クラインの四元群」は多くの場合「長方形」として図示されていました。各頂点に4つの元を配置し、各元の相互変換作用を両端に矢印のついた各辺(対角線を含む)で表すのです。例えば以下のような感じです。

青い矢印が「裏(reverse)」を表し、赤いのが「逆(converse)」に対応しています。対角線の紫の線は両者の積で「対偶(contraposition)」にあたります。

ところで山下先生はあまりこだわってはいないようでしたが、上図が「クラインの四元群」であると考えるとき、その群の構成には2種類(もっとあるかもしれません)の考え方があると思います。

それは「命題を元とする場合」と「変換を元とする場合」の二つです。

前者とすると使用する演算をどう考えれば良いのか(少なくとも私には)よくわかりません。後者の考え方ですと群は(単位元, 裏, 逆, 対偶)の四つで構成され、演算は元を連続して行なうことです。

たとえば「裏」に続けて「逆」を行なうことが両者の演算で、その結果は「対偶」になります。この群の各元は2乗する(こうした演算は乗法と考えます)と、つまり二回連続で行なうと、何も変換しなかったのと同じ結果になるなど先述した群の4つの資格を満たしています。こちらの方が「構造」を考える上では好ましいのではないかと私は思っています。

また話を戻します。

変換が縦横2方向に行なわれる平面で表現された「構造」に対して位数2の巡回群を1つ付け加えて図示するなら高さ方向であろうと考えました。位数2の巡回群1つのときは線分(1次元)として、2つのときは平面(2次元)として表せたので3つのときは立体(3次元)かな?という類推です。いずれにせよ直方体には8つの頂点がありますから、それらに「8個の命題」を配置すれば群構造を使って関係性の記述はできそうです。

「変換を元とする」考え方ですと直方体的なるものは(単位元、前後、左右、天地、前後左右、前後天地、左右天地、前後左右天地)という群構造だとみなせます。これは(単位元、前後)と(単位元、左右)という「クラインの四元群」をつくり出した位数2の巡回群に、同様の群(単位元、天地)を新たに加えたものです。

前述した図の場合と比較すると矢印の位置的には「前後=裏」「左右=逆」「前後左右=対偶」です。演算結果はすべてその群に含まれる元でなければならないので、いくつか元が増えて最終的に位数8の群になりました。なお「矢印の位置的には」と断りを入れたのは直方体の各辺(と対角線)にどのような意味を持たせるか、つまり「構造」の各部分がどのような意味を持ち何に対応するかという話はここではしていないからです。

さて、ここまで山下先生が示唆した群について考察してきましたが、上記の構造を持つ群の部分群が「位数4の巡回群」であることはあり得ません。各元はすべて自身が逆元を兼ねているため、この元の部分群は(親群の位数8から単位元の分1を引いた)7個の「位数2の巡回群」か、それら巡回群が組み合わさった同数(図形的には1つの頂点を共有する6つの長方形と1つの四面体で計7個)の「クラインの四元群」になってしまいます。部分群となる「クラインの四元群」について山下先生は「2個」だと示唆していましたので、それとも大きく異なります。

何か全く別の方法や考え方を用いなければいけません。

これについては「位数4の巡回群」がそもそもどういう条件下で出現するのか、というあたりが突破口だろうとは考えました。ですが、非常に残念なことに私が持っている群論の知識はほぼ『ガロアと群論』がすべてなのです。それさえも怪しいのですが...。

しかし、ググっていたらなんとか「正解」とおぼしきものには到達できました。「dihedral group」というもののようです。

>> Dih4

>>

確かに「位数が8」「位数4の巡回群を部分群として1個持つ」「『クラインの四元群』を部分群として2個持つ」という特徴をすべて満たしています。おそらくこれのことを言っていたと考えて間違いないでしょう。

あとはこの dihedral群(略してDih群)の元をどう特定していくか、です。それが出来なくては理解できたことになりません。

親族の基本構造

私は先に「変換を元として考えたい」旨述べました。それは唯一のネタモトである『ガロアと群論』が主に「置換群(substitution group)(通常「置換群」は permutation group といいますが、『ガロアと群論』巻末の「重要な術語」リストには substitution group と書いてありました。著者の Lieber が何か意図をもってこう書いていたのかもしれません。単なる翻訳者の間違いという可能性もなくはないですが:汗)」についてのものだったからでもあります。もちろん個人的な好みもあるのですが。

「置換群」というのは変換を元とする群で、その変換が置換であるものです。「1」「2」という数字の並びを入れ替える(つまり置換する)操作を(12)と書きます。「1」「2」「3」という3つの数字の場合に 123 → 231 → 312 → 123...という置換を繰り返す操作を(123)と書いて、これを元とします。123 → 213 → 123... なら(12)(3)又は(12)です。単位元は英語名の頭文字をとって I と表記します。

「クラインの四元群」をこの表記法を使った置換群としてV1={ I, (12)(34), (13)(24), (14)(23) }と表せます。山下先生方式で図示すると以下のようになります。

pとその否定の二つの状態を「12」「21」と考え、同様にqに対しては「34」と「43」を適用すると、先述した「クラインの四元群」の図とすっかり同じになります。構造も、それが意味することも同じだということです。

しかし「クラインの四元群」はV2={ I, (12), (34), (12)(34) }等々と色々に書けます。図は以下のようになります。

構造としては同じなのですが、V1と同じ方式(意味を持つ数字の最小単位を2桁にする)では「裏、逆、対偶」を表現した図と表す意味が異なってしまいます。ですが、これについては単に4つの4桁の数字をまるごと4つの命題と1対1対応させてしまえば結局同じことが表現できます。

一方、V1とV2で使い勝手に大きな差が出る場合もあります。それはたとえば『親族の基本構造』に出て来る婚姻規則に適用するときなどです。山下先生の群に関する論もこれへの言及から始まっていました。

>> カリエラ型の婚姻規則とクラインの四元群(橋爪大三郎『はじめての構造主義』への部分的批判)

ググってみると上記のサイトがヒットしました。タイトルにある「カリエラ型」というのはオーストラリアの未開族である Kariera 族のことです。彼等が一見すると非常に複雑怪奇な婚姻規則を持っているようだったが、アンドレ・ヴェイユとレヴィ=ストロースはその規則を「クラインの四元群」を使って解明したという構造主義の輝かしい成果があるのです。

彼等の社会には4つのセクションがあって、全員がいずれかのセクションに属しています。そして各セクションの所属者たちは結婚に際してどのセクションから相手を選ぶか、またその結婚によって生まれた子どもがどのセクションに属するかについて複雑に見える取り決めを持っています。

はじめての構造主義』の解説では非常に情報が整理されておらず、また婚姻規則を「クラインの四元群」で書いたという図も各頂点に何か書いてあって4辺と対角線を使ってそこから何かを読み取る、という点ではこれまで例示してきた図と同じようなものに見えるのですが、実は全然性質が違っていて群とは何も関係ないんじゃないかと思えてなりません。

左上にA1、右上にB1、左下にA2、右下にB2と書いてあって4つのセクション(ここではクラスと呼んでいます)を表していて、横方向が「父のクラス/子のクラス(の変換?)」、縦方向が「母のクラス/子のクラス(の変換?)」だそうです。この図から「父親が A1 で 母親が B2 なら子どもは B1 だとわかる!」そうなんですが、なぜ「A2」じゃいけないのか全然わかりません。それとそんなことが図から「わかる」ということが一体どう「群」と関係するのか見当もつきません。

しかしこれらの怪しい部分に目を瞑っても「対角線が結婚可能かどうかを示す」という説明については、手の施し用がないのではないでしょうか。どうにも理解を越えています。これは「変換操作」ですか?

一方『思想の中の数学的構造』では4つのセクションそのものを扱うのではなく、彼等の結婚の型を対象として解説しています。私はここになんらかの工夫があったんじゃないかと思っています。『親族の基本構造』を読んでないので確定的なことは言えませんが「ここでは彼等の主張を再構成して述べてみよう(p.61)」とありましたからその可能性は高そうです(しかし『はじめての構造主義』の初出が1988年なのに対して山下先生の論は1969年なんですよね...なぜ理解が後退したのかしらん?)。

カリエラ族のルールを「結婚型」で捉え直す山下先生の解説に準拠しつつ、それを更に「置換群」を使って再構成すると以下のように考えられます。セクションは A1 A2 B1 B2 ではなく単純に A B C D という表記です。

まずM1はAB(夫がAに所属、妻がBに所属)の結婚で子どもはDに所属します。以下M2がCDで子はB、M3がDCで子はA、M4がBAで子がCです。

M1の次世代が男子だった場合にはその子はM3タイプの結婚をします。一方女子だった場合にはM2タイプの結婚をしなくてはいけません。つまり「 M1 → M3 (男の子」)と 「M1 → M2(女の子)」 の2系統の変換があるわけです。同様に「 M2 → M4(男) 」 「M2 → M1(女) 」「M3 → M1(男)」「M3 → M4(女)」「M4 → M2(男)」「M4 → M3(女)」です。

以上のことからM1M2M3M4という親世代に対して息子達の結婚タイプはM3M4M1M2となります。1234から3412という変化です。この3412は男の孫たちの世代では1234に戻ってしまいます。V1における赤い線(13)(24)の置換そのものです。同様に娘達に関しては 1234 → 2143 → 1234 です。これもV1における青い線(12)(34)の置換と同じです。参考にしやすいように図を再掲します。

これと対比される部族としてタラウ(Tarau)族というのもいるそうです。彼等の婚姻規則は結婚タイプについてはカリエラ族と同じで、子どもの所属するセクションが父親と同じという点でだけ異なります。細かい説明をはぶいて言いますと彼等は1234 → 4123 → 3412 → 2341 → 1234...という4つの状態が巡回していく変化をします。つまり位数4の巡回群を作るのです。

これを置換群としてみると G={I, (1432), (13)(24), (1234)}になります。このとき(1432)と(1234)は逆元で、(1432)を累乗していった場合も、(1234)を累乗していった場合も共にすべての元を表せます。

上でリンクした『はじめての構造主義』批判をしている人は、群論でこうした構造を説明することに冷笑的なようです。ちょっとおしゃれに知的に見えるだけで何の意味もないというようなことを書いていました。最後にお勧めとして『寝ながら学べる構造主義』をあげるあたり、相当人文科学をバカにしているのかな?という印象です。(余談:しかしコノヒトは「群」の条件を3つだと書いたり、「結合法則」の説明で「交換法則」のことを言ったりしているので所謂「天然」なのかもしれません。「クラインの四元群」は「可換群」という特殊な群ですので交換法則も成り立ってはいるのですけど)

ただ、こうした意見には首肯せざるを得ない部分もあります。たとえば私が最初に示した4つの命題の図は高校1年生用の基礎レベル参考書にそっくり同じものが載っています。それは高校数学教育のレベルが異常に高いということは意味しないでしょう。逆に群論がもはや時代遅れのポンコツ理論だということでもありません。

一応乗りかかった船といいますか、折角ここまで言及してきたので「効用」について指摘しておきます。『はじめての構造主義』での説明もなんだか誤摩化されたような感じでしたし、山下先生のこの本でもいまひとつわかりにくかった「交叉イトコと平行イトコに関する問題」について以下にちょっとまとめてみます。

「クラインの四元群」が今までと違うかたちになっています。先に言及した Dih4群の部分群である「クラインの四元群(別名Dih2)」はこの形で表現されていました。ついでですので以後「クラインの四元群」のことは Dih2群と呼ぶことにします。

上の図に関しては見てそのままですが、カリエラ族では両側交叉イトコ婚が可能なのに対してタラウ族では片側しか可能ではないことがわかります。どちらも例としてM1夫婦から孫の代までの結婚を示しました。カリエラでは息子達はM3の結婚をせねばならず、娘達はM2ですので型があわないためキョウダイで結婚はできません。タラウ族でも息子達は親と同じM1で娘達はM4ですからキョウダイ婚は無理です。

孫の代ではどちらの族も「息子の息子」と「息子の娘」は型が合いません。「娘の息子」と「娘の娘」も同様です。つまり平行イトコ婚はできません。カリエラ族では「息子の息子」と「娘の娘」、「息子の娘」と「娘の息子」はそれぞれ型が同じなので結婚できます。故に両側交叉イトコ婚が許されます。

一方タラウ族では「息子の娘」と「娘の息子」は型が合いますが、「息子の息子」はM1で「娘の娘」はM3なので駄目です。故に片側交叉イトコ婚のみが許されます。

これは『はじめての構造主義』でも言及されていたことですが、両部族の婚姻規則の構造を知ることで、そしてそれのみで、それに付随し関連する別の問題についても理解が可能になったことがこの方法のすばらしいところなんじゃないかと思います。

とはいうものの、疑問点は残ります。この構造からはタラウ族では(息子と父親の型が同じなので)母子の近親婚が可能であるように見えます。この部族ではそのあたりのことはどうなっているんでしょうか。また、ここでは変換を世代の変遷と意味付けているせいで Dih2群の 1234 → 4321方面の置換が他の置換と大きく違う意味(2世代分という意味)をもってしまっています。これは数学的に規定される群の性質等とは違った解釈なのではないかと思えます。もしかしたらそういう「困った点」を糊塗する必要もあって山下先生は執拗に長方形タイプの図示を行なっていたのかもしれません。

特定した群について

長々書いてきてすっかり疲弊したので、ここらで「伝統論理学の8命題」に関する山下予測(←?)に合致する置換群を示しておきます。これしかないのかどうかはよくわかりません。

Dih4={I, (12), (34), (12)(34), (13)(24), (14)(23), (4132), (1423)}

Z4={I, (4132), (12)(34), (1423)}

V1={I, (12)(34), (13)(24), (14)(23)}

V2={I, (12), (34), (12)(34)}

Dih2群に関してはここまでで散々見慣れた奴ですね。位数8のDih4群の元と、ついでに他の三つの部分群の元も(4132)をa、(12)をbにして書き換えてみます。

分かり易さを考えて蛇足ですがaの4乗とbの2乗が単位元になることを示しておきました。こうなってくると何やら神秘というか納得できない気持ち悪さみたいなものさえ感じます。たぶん数学的感覚にすぐれている人は(本物の)絶対音感がある人が音に対してそうであるように、こういう関係性も一発で見えたりするんでしょうね。だから若くして才能を発揮出来ない人間には見込みがないと言われる世界なんでしょう。

雑感

Dih4群の図式に伝統論理学の8命題を当てはめた画像を作ろうかと思いましたが、すっかり興味をなくしてしまったのでやめました。Dih4群の(数学オンチからみて)不可思議な性質にすっかりヤラレてしまった感じです。「構造」そのものの方がよっぽど興味深いですね。

「構造主義」が駄目になってしまったのは、よく言われるように最初は「数学的構造」を使っていたのが、後にどんどんなんでもアリのわけがわからない似非理論でもオーケーになってしまったからだ、というのはたぶん本当なんだろうと思います。粗悪品だらけで信用を失ったんですね。

とはいうものの厳密に取り扱った場合に「数学的構造」が現実世界にある何かを正確に反映するようなことも期待できないでしょう。自然界に存在する結晶などの単純な物質や人間と関係しない物理現象でさえそうであるのに、社会や文化に関することに対してうまく適用できるはずがありません。こういう事態に陥ったことにも必然性はあったのでしょう。

ですが私は、「数学的構造」とは似て非なる「統計的構造(?)」を使った別種の「構造主義」には復権の機会はあると思っています。また「完全に説明しつくす」といったことを目論むのではなく、「いくらか見通しがよくなればよい」くらいの感じで「構造」を利用すれば(つまり志を低くして、そのかわり成功事例を多数積み上げれば)地味ながら有用という評価も得られそうです。

なかなかそう上手くはいかないんでしょうけどね。

以下参考になった wikiepdia のページなどをリンクしておきます。『ガロアと群論』を読んでいるときにも相当苦戦しましたが、日本語の数学用語は英語のそれより分かりにくく、また単語レベルではなく文法のレベルでも相当奇怪な表現が多用されていて理解の妨げになります。「元」という用語ひとつを例にとってもそうですが「element」と言われた方が格段にわかりやすいんですよね。それと数学的な概念として難しいのか、翻訳者がちゃんと理解していなくてなんだかおかしな説明になっているのか日本語で読むと判断がつかないこともあるのでリンク先は英語版の wikipedia です。

>> Cycle graph (group)

>> List of small groups

>> Examples of groups

>> Direct product of groups

>> Group (mathematics)

August 2011

August 30 Tuesday 2011

Twitter RSS Reader続報

ちょこちょこ手を入れてなんとなくそれっぽい雰囲気になってきた Twitter RSS Reader なんですが世間の反響はアイカタさんを除いて皆無です。ま、そりゃそうだろうけどさ。ちぇっ。でもせっかく作ったので微妙な宣伝&解説などを。

上段左のリストから読みたい相手(例:cyzo)を選んで、右端のボタンを押すと最新の tweet が20件分表示されます。また、リストとボタンの間にある枠内に読みたい相手のアカウント(例:asahi)を入力してリターンキーを叩くかボタンを押すと tweet が読めます。存在しないアカウントを入れた場合には「Not found /status/user_timeline/(入力したアカウント名).rss」というエラーメッセージが出ますが特に問題はありません。

そのほか文字列の前に「#」をつけて入力すると(例:#2ch)「ハッシュタグ」が検索できます。日本語のハッシュタグ(例:#マスコミ)にも対応しました。

この他、検索するハッシュタグのあとに「=」をつけて適当な文字列を繋げて送信すると論理積検索(?)をしたことになるようです。「ようです」と歯切れの悪い書き方なのは、こうしたことは私のCGIスクリプトではなく Twitter社が提供する Twitter Search に関することなのでよくわからんからです。

先に例示した「#2ch」に「=自転車」をつけて送信すると「#2ch」を含む tweet のうち「自転車」も含むものが20件表示されます。この機能はハッシュタグ内で特定アカウントの発言を追う場合などにも有用そうなのですが「常に20件だけ」という制限は残念です。致し方ないのでしょうけど。

もっと些末な点についても説明しておきますと、全部ではありませんが短縮URLと位置情報にはリンクを形成するようにしてあります。位置情報は「map」という表記にして Google Static Map にリンクさせました。位置情報でもなんだかポリゴン(?)云々いう複雑な情報タグがつく人がいて、それに関してはわけがわからないのでまるまる削っています。

まだまだ大小色々たくさんの不具合が残っていることと思いますのでお気づきの方は御一報ください。ではでは。

フィルタリングのコツ

フィルタリングというのは鋭意開発中(?)の分析ツールで使うヤツのことなんですけれど。「断捨離」を心がけることにしました。どうにも貧乏性で実生活同様「使えるかも...」と思ったものを何でも取っておいて収拾がつかなくなっていました。ここは開き直ってひとつ削り過ぎ上等な感じでいこうかと。

理屈は後でついてくる、というのではありませんが、「とにかくひたすら調整してみたら何か規則性が見えてきた」というのはよくある話です。もともと分析結果が誰にでもわかりやすい形で出て来るものではないのだから大胆に削った方が単純化できて見通しがよくなる...という可能性は比較的高いんじゃないかと。

都市のあかりのもとでの方が有名な星座はみつけやすい、ような気もしますし。とにかく腐らずやっていこう!(←独り言かよ!)...そんな感じで。

追伸:余談(?)ですがTwitter のRSSフィードについて調べてみた感じだと、どうもTwitterの台頭にともなってRSSリーダーを使う人が減少していったという経緯があったようです。

>> Bloglinesがサービス終了

自分だけが使わなくなったのかと思っていたのですがそうではなかったようです。私がRSSリーダーなどを使わなくなった理由は世間の趨勢とは違いますけどね。

August 24 Wednesday 2011

自作 Twitter Reader

まあ、もうちょっと正確にいうと「Twitter RSS Reader」なんですけど。とりあえず適当に様子見気分で作ってみました。

>> Twitter Reader

寝る前にチャチャっと完成の予定だったのに朝日が...(号泣)。

なんだか以前見かけた「PerlでTwitterをアレコレするモジュール」はとてつもなく巨大で面倒なものだったと記憶してます。それで弄るのを諦めていたのですが、実はTwitter の書き込みもRSSフィードの形で取得できるらしいと知りました。

「ほう、そんなら簡単やで!」のはずがいつものように思惑ハズレと泥縄対応の連続で難航しまくりです。最低限必要と思われる「何時間前に書き込んだとか情報」に関しても、もう正直面倒くさい(秒換算とかやってられるか!研究でそんな処理使わないし!)のでとりあえずナシでリリース(?)。こんなことに時間使ってる場合じゃないので。

新規登録用のフォームとかも用意してないというか、工夫するのメンドクサイ... それと RSSで配信されるフィード数って Twitter 社側で少量に固定しちゃってますね(20個かな?)... これについてはいかんともし難い。というわけで、作ってはみたもののあんまり役には立たないヨカン...。 (ちょっと追記:あんまり無機能なのもどうかと思ったのでちょこちょこ弄りました。リストから選ぶだけではなくアカウントを手入力できます。それとハッシュタグも手入力&動作がアヤシゲ...ですが一応表示します。時間表示については99時間より前を全部「99:99」にしました。)

ま、それでもTwitterに関するアレコレはちょっとだけわかったっぽいからヨシとしますか。わかっても仕方が無い気もしてならないけど、それは考えないことにしよう。あと socket関数とかについてほんの少し理解がすすんだ(←!)のもよかったかも。

と、同時に謎も色々生じてますが。

たとえば、一部のHTML特殊記号に含まれる「&」部分をHTML特殊記号で表してしまってるせいで16進数とか記号とかがそのまま表示されちゃう問題とか。これはおそらくRSSフィードのときはXMLのアレコレ(?)を使って適切に処理できていたんでしょう。オイラが適当に抜き出してHTMLファイル上でそのまま使ったのがまずかったのだと思われます。とはいえ、そもそも何の為にそんな仕様にしていたのかはよくわかりませんが。

あと全世界での使用を見越しての対策なのか、単に文字コードをUTF8とかにするのじゃなくて、基本の英数字以外の文字は特殊記号化というかコード化してあるんですよね。その御陰で取得フィードをテキストデータとして(data miningとかで)分析する際にはひと手間かかってウザかったりもします。

なにか

なにか書くことがあったはずなのに思い出せません。なんだったろ?

>> ビビるクマ

こんな古い小ネタじゃなかったし。うーん、なんだったろう。ボケがひどいのでこんな感じで。

August 19 Friday 2011

スクリプト改良実験

色々 Perl を使った作業をやるついでに少し改変してみました。書く側に関する改変点をあげても何のことやらわからんと思いますので読むときの使い勝手に関することだけあげてみます。主なものは「索引」「小見出しリンク」「RSSで複数記事を配信」の3点でしょうか。

「索引」は Permlink 用ページの先頭に形成されるようにしました。月と日付を組み合わせた4桁の数字をクリックすると該当する日付の記事に飛びます。いままでのところ「一応毎月更新はしていて最大4/最小1/平均2〜3回」といったペースのようです。

「小見出しリンク」に関しては小見出しの文字列前についている「■」を Permlink 用ページ上でクリックすると name タグで指定した URL に飛ぶ仕掛けをつくりました。需要についてはわかりませんが過去記事への自己言及が容易にはなるので無駄ではないと思います。

3点目の「RSSで複数記事を配信」ですが複数配信に加えて記事タイトルを日付ではなく小見出しの羅列にして出力するようにも改変しました。今年のテーマは「できるだけ普通になること」なので可能な所から実現してみています。

いずれにせよすべて余りよく理解してないままやっていますので、もし不具合などお気づきの方がいらしたら(誰も使っていない:涙) comment 掲示板にでも御一報ください。ではでは。

適当にDCPRGの曲を弾いてみた

いまやすっかり「好事家たち」(←60代女性を多数含むのだとか:驚)に大人気の菊地成孔先生のバンド「DCPRG」が世界デビュー(←!)だそうで。めでたい。

翻って私自身はといえば、最近あまりにも落ち込むようなクサクサしたことが(いつも以上に)多発してすっかり滅入っているので「ここは一つ上り調子のDCPRGに肖ろう!」というわけではないものの『Music From Chaos2』に入っている「構造 I 」のベースなどモサモサとコピっています。

コピるといってもこちとら(技量レベル最底辺の)ド素人ですから「ソラドレドラ」を繰り返しつつ後半にちょっと入る「ミミレソソファミミラ#」にだけ注意しながら、最後の最後あたりでチロっと一箇所合間に「レミ」とか入れて「うひひひひ...」とやるだけなんですけどね。寄る辺なしでこのポリリズム(?)の中でやれと言われたら即死でしょうが、聴こえて来るベースに合わせて弾くだけならなんとかなりますしおすし。ちなみに一応例のところにもあるようです。御参考まで。

>> 構造 I

みんな勝手にやっているようで「合っている」というのは実に気持ちいいなあ、と思ったりします。

自然言語とPerlについて

そういえば Perlの一般的な話(歴史?)や Larry Wall についてググったことってなかったな(というか、そもそも手元の書籍もちゃんと読んでいませんでした:汗)と思ってちょっと検索してみました。

Perl5が不充分だと考える人は、どうやらモジュールによって構成される「ライブラリ」の改善(機能衝突回避など)をPerl6に期待しているらしいことなどはわかりました。私は原始人(しかも不勉強)なので、昨今の計算機言語におけるプログラミングの成否は「ライブラリ」をどう上手に的確に利用するかという点にかかっていることなどは何も知らず、人々はPerl5の何が一体そんなに不満なのか今ひとつわかっていなかったんですよね。

それはそうと色々なインタビューなどを読んで私が興味を強くひかれたのは Larry Wall の言語観というか言語センスでした。たとえば以下のインタビューでもチラチラとその片鱗を垣間みれます。

>> Tech総研のインタビュー

見栄えが似ている必要はありません。機能したときに似ていることが大切なんです。例えば、子供よりも大人のほうがたくさんの言葉は知っていますが、どちらもその言語は話せます。しかし、多くのプログラミング言語は、その一式を丸ごと覚えないと使えません。Perlは一部を知っているだけでも使えますので、覚えたての若いユーザーもベテランの大人のユーザーもプログラミングができます。また、多くのプログラミング言語は語順に依存しますが、Perl では例えば名詞と動詞とで違うマーキングをしますから、コードを見ただけですぐに区別がつきます。

私は『プログラミング Perl』の第3版は持っていないので、そっちにはなんと書いてあるのか知らないのですが『改訂版(日本語)』の「1.2 自然言語と人工言語」によれば「名詞」は「変数」のことで「動詞」は「関数」のことを指しているようです。そして「変数」には確かに独特のマーキングがなされています。(英語や中国語のように)「語順に依存」しないための工夫と考えると、これら(語頭につく)「妙ちくりんな文字」は(日本語でいえば)「助詞」にあたるものだったんでしょうか。すごく面白い視点だと思います。「print」を「いんさつする」と表記することが計算機言語の「日本語化」というわけではないんですよね。

さて、「言語学」という単語を聞いたときに、多くの人は単語か文章のどちらかを思い浮かべることだろう。単語も文章も、話ことばをまとめるための便利な方法に過ぎない。これらのいずれも、分解してより小さな意味的な単位にしたり、組み合わせてより大きな意味的な単位にすることができる。そして、すべての単位の意味は、それが置かれている構文的、意味的、実際的なコンテキストに大きく依存する。自然言語には、名詞、動詞といったさまざまな種類の単語がある。私が単独で「犬」(dog)と言ったとすると、あなたはそれを名詞だと考えるだろう。しかし、私がその単語を別な使い方をすることも可能である。つまり、名詞はコンテキストに応じて、動詞、形容詞、副詞としても機能することができる。もしあなたが。真夏の熱い日(dog day)に犬を尾行する(dog)なら、あなたはくたくたに疲れた(dog-tired)野犬狩り(dogcatcher)になるだろう(訳注:原文は次の通り。"If you dog a dog during the dog days of summer, you'll be a dog tired dogcathcer.")。(p.3)

「真夏の熱い日」は「暑い日」の間違いじゃないかと思いますが「熱い」の方が雰囲気が出ると考えてのことかもしれません。 Perl の話と離れてしまっている気もしますが(笑?)全くこれはこの通りだと思います。自然言語の実際の用例に関しては厳密にやろうとすると品詞分類すらかなり怪しいんですよね。英語は特に名詞と動詞が同じ形だったり(御丁寧に3単現と複数を表すときに同じ s を使ったり故意に混同させようとしているとしか思えません:笑)しますし。

それにしても作者が言語学者だという計算機言語は稀有なんじゃないでしょうか。私が無知で知らないだけかもしれないですけど。「言語学者」というのも名目上(つまり一応学位はあるけど19世紀スタイルの化石野郎だったり過剰な生成文法信奉者だったりとか)ではなく、至極まともというのがすごいというかありがたいというか。

あと、上でリンクしたインタビューの最後でこんなことを言っています。さすがだな、と思いました。

二度目に日本に来たとき、友人に京都に連れてってもらいました。そこで、「大きな石」とか「小さな石」とかいろいろと説明されて、それから日本語が大好きになりました。これでも言語学者ですしね(笑)。

ここに出て来る「大きな」と「小さな」は実は結構ややこしい言葉です。ややこしい割によく使うのでセンスのある日本語学習者だと「なんで?」とすぐ聞いてくるんですよね。この友人はどんなふうに説明したんでしょうか。「大きい石」と「小さい石」なら説明は簡単なんですけど。

August 04 Thursday 2011

加賀美早紀さんとウルトラセブンX

なんだか7月末で芸能界を引退するという女優さんがいるとかで、デビューが飯島愛さんの自伝小説原作の映画なんだとか。うんうんそんな人もいたねー...くらいに思ってたんですが、実はこの方『ウルトラセブンX』のヒロインもやってたんですね。同一人物とは思ってなかったので驚きました。だとすると割と残念かな。

>>

「加賀美早紀」でググって画像やら動画やらを探してみましたが、なんというか記憶とちょっと違う感じがしてしまいます。どうも私は女性が化粧や髪型や服装の雰囲気を変えると全く別人に見えてしまうという可哀想な観察眼の持ち主なんですよね。それでも『X』のときの印象に比較的近かったのが上記引用写真かな。

記憶を無くしている主人公の過去を知っているっぽい謎の人物で、唐突に表れて何か告げて唐突にいなくなる人...みたいな役だったかな。結末近くで色々関係とかが明かされて、実は主人公たちがいる世界は云々...ま、かなり昔に適当に見ただけなので説明もグダグダになってますけど。

ウルトラシリーズ好きの特撮ファンからは散々な評価だったらしいのですが、私は結構好きでした。なにやら閉塞感のあるアヤシイ世界を舞台に割と捻りのきいた話で構成されていたし、役者さんたちも上手い下手は別にして、良い意味でツルっとした不快感を感じさせないタイプの人達ばかりで見やすかったです。ウルトラファンが評価しないと言っているのは、おそらく「ウルトラセブン」さんが毎回ラストで無敵っぷりを発揮してあっさりサクッと敵を退治してた(くんずほぐれつとか全然しない)あたりが物足りなかったんじゃないかと思います。ウルトラセブンじゃなくていーじゃんみたいな。それはまあ、確かにそうですね。

ただ、このあたりは完全に好みの問題なんですけど、私の場合は「1. 実は主人公のいる世界は何ものかによって作られた/囲い込まれた/操作された世界である」「2. パートナーが不自然なくらい美人」「3. 主人公は何やら超パワーをもっているが制限を受けている」という3点が満たされているとかなり大好物の予感です。『X』の場合「3」に相当するのがウルトラセブンなだけで、何か別の超パワーであっても良いのですが、逆にいえばウルトラセブンだと何がだめなんだよ!とも言えます。

それで「2」は「3」よりも重要な要素なんですが、加賀美さんは十分この役割を果たしてました。「2」の要素は主人公が「何ものか」と対峙する動機について、あーだこーだいう理屈をさておいて絵的な面で強力な説得力を持たせるために必要で、ここが駄目だと非常に推進力がないというか、見ている側からすると「感情移入できねーなー、かってにすればー」な気分になってしまいます。

名作でいえば『ブレードランナー』のショーン・ヤングとかは圧倒的でした。でも「3」要素はないですよね。寧ろ相手側のレプリカントが持ってた感じで(たしかにデッカード自身も...というのはありますが)。でも完全無欠な感じで大好きな作品です。一方、『マトリックス』では「3」要素は完璧なんですが「2」の評価がすごく難しくて、1作目は割と手放しでサイコー!といえても『リローデッド』の評価は容姿の衰えというか粗が目立ってきちゃって「むむむ...」となります。で、こうした視点からいっても3作目は論外(笑?)。

まあ、上記の記述からも明白なように私は映画やドラマの見方がとことん腐っていまして(笑?)こまけえ部分がぐっちゃぐちゃでもいくつかのポイントが次第点だと異常な高評価を与えたりします。なので『ダークシティ』とかも超絶ポイント高いです。「2」に該当するジェニファー・コネリーは完璧でした。やっぱり私の場合は「2」の要素がかなり重要なようです。

アニメだと『ビッグオー』とかが該当しそうかな。「2」の要素はアンドロイドのドロシーが相当するのかもしれませんが、彼女は子どもに近いからちょっと微妙な感じ。そういえば『ビッグオー』は日本ではさほど受けず、アメリカでの方が評判が良かったとかなんとか。

>> 参考動画(英語版)

あまり大きな声ではいえない余談ですが、日本語アニメの英語フキカエ版は(私のようなしょぼい英語力の人には)格段に聴き取りやすく、しかも妙なニュアンスは取り除かれるため聞いていてイライラすることもなく、たとえば某トミノ監督作品などを見る時には非常にお勧めです。『キングゲイナー』は日本語だと見てられませんが英語だとすごくオモシロ(ry

離人症と七夕の国

ところで「1」の要素についてなんですが、これはディックやらバロウズやら色々な人がネタにしています。ちょっと変形した感じのものでは『トゥルーマンショー』などというのもありましたが、これもディックから元ネタを拝借しているとかなんとか聞きます。

で、こうしたネタの背景には「離人症」的な感覚があるのかな?と私は疑っています。「離人症」に関しては御存知で無い方はググっていただくとして、『七夕の国』に出て来る「窓が開く感覚」というのはまさしくコレのことじゃないかと思いました。ですが、「離人症 七夕の国」でググってもあまりひっかかってきません。せいぜいが某巨大掲示板で見かけた以下のものくらいでしょうか。

361 :本当にあった怖い名無し:2007/03/23(金) 18:00:39 ID:sFtf7fGp0
この中で、寄生獣って漫画を書いた作家が書いた別の漫画で
七夕の国っての読んだことある人いる?
あれの窓の外って感覚がこんな感じなのかなぁと
どっかで感じた感があったんだが、今日理解できた。
タミフルスレで同じ事書いたが
今から死んでもお前らがいるかと思うと安心して死ねるぐらい感動。

「離人症」ではなくて「アリス症候群」のスレみたいですけど。どうやら「タミフル」を飲むとそういう症状がでるという話をしていたらしいです。でも「アリス症候群」は私が昔読んだ『分裂病少女の手記』だと精神分裂病(今は「統合失調症」といいますね)の症状じゃなかったかな?

いずれにせよ、自分(の意識?)が自分が属しているはずの世界から乖離している(が完全に乖離し終わってはおらず、その結果どうなるのか宙ぶらりんなまま)という確固たる身体感覚というのは通常激しい「恐怖」(と不安というかモヤモヤ感)をともないます。で、これに打ち勝つためには、というか、これを押し進めて「悪夢が現実化してその中に目覚めてしまう」という最悪の帰結に辿り着くのではなく、何か良い結果に着地できると期待させるためには、「ものすごい美人(=絶対善)の導き手(?)」みたいなものが必要なんですよね。何を説明しているのか自分でもよくわからなくなってきてますが(笑?)。

この観点でいうと(良い意味で?)最悪側に落とし込んだ映画としては『未来世紀ブラジル』があります。一旦美女で釣っておいて、絶望の中に叩き込むという...(鬱)。反対に『リベリオン』なんかは美女を配役すべきところに全く感情移入不可能な容姿の役者さんをあてていて(←ひどい言い草だな!)その点ではダメダメなんですが意外にも「敵」だと思ってた息子が...という展開などで主人公に戦う力を与えているので、このあたりは分かった上での変形というかひと工夫だったのかもしれません。

ていうか、創作の世界くらい全部ハッピーエンドでいいじゃんか、と私などは思ってしまうんですけどね。

それと今回言及した加賀美さんもそうですが、特撮モノに出るような美女はあんまり芸能界で大成していません。日本のドラマや映画だと『渡る世間に鬼はナントカ』とかに見られるような下衆カルチャー御用達作品の需要が大きくてあんまり出番がまわってこない、なんてこともあるのかもしれません。むかし円谷作品の脚本などをやっていた市川森一さんが「なぜ(普通のドラマじゃなくて)円谷作品で脚本家をしていたのか?」と聞かれて「当時は円谷作品しかシャレオツなドラマは作れなかったからだ(←意訳:笑)」というようなことを言っていました。なるほどな、と思ったり。

なんだか無駄に長くなったのでこんな感じで。

あ、そういえば『七夕の国』は「2」とか「3」以前に「1」要素が主人公「ナンマル」君および読者である我々にとっては存在していないので、上であげてきた枠内に該当しません。でも、かなり好きな作品です。というか、よく考えると「1」要素も本当は入ってますよね、アレ。明示的に言及されないだけで。あの里の人達だけが「作られた」世界にいると考える理由は実はない...のではないかと。

July 2011

July 20 Wednesday 2011

マイコン世代の思想

私は結構『For Beginners』シリーズが好きで何冊か持っています。で、その中に翻訳ではなく日本オリジナルで作られたらしい『マイコン』というのがあります。1983年の出版なので今からざっと28年前ですね。

かつて「マイコン」という言葉は今で言う「パソコン」のことだったと記憶しているのですが、昨今では所謂「ワンボードマイコン」のことを「マイコン」と呼んで「パソコン」と区別しているようです。近年、学研の「大人の科学」シリーズで取り上げられたり、イタリア製のArduinoなどが普及して一般の人でも扱うことが増えたためなのでしょうか。よくわかりませんが。

話は戻って、この『マイコン』という本で扱っている内容なんですが、かなり広い分野に渡っていて「マイコン」「パソコン」に限定されていません。エントロピーの話から始まって半導体やフリップフロップ回路を使ったメモリの仕組み、アルゴリズム云々。情報学から工学、社会学にまで渡ってユニークな内容になっています。そのため「パソコン本」にありがちな内容の「陳腐化」はあまり見られません。今読んでも面白いです。ただ良い点と悪い点がかなり混在していてあまり手放しでお勧めできる感じでもなかったりするのも事実です。

悪い方をいうと「イラストの8割が本文と関係ないシモネタ」「大事なところで致命的な誤植(?)を多発」というあたりでしょうか。前者についてはイラスト担当の方が内容を全く理解できなかったか興味を持てなかったかしたための苦肉の策かな?とか邪推しています。実際の事情はわかりませんけどね。かなり異様です。後者の駄目ポイントについては後でちょっと詳しく言及するとして、良い点について紹介してみたいと思います。ここ数年、特に311以降の色々なひどいことを見るにつけ、この本の記述が思い出されたので。

科学者=官僚だなんて、子どものとき伝記を読み過ぎたキミはいくらいっても信じないだろう。だが、名の通った科学者ほどそうなのだが、彼の言動は、なぜか不思議にお役人の言動に酷似してくる。これは彼が公立・民間いずれの機関に所属しようと同じことだ。(略)ちょっと考えただけでも、そのセクショナリズム、非専門家に対する権威主義的恫喝、その反対にオカミに弱いこと、思考の柔軟性のなさ、非ラジカルさ、人間味のないこと、点数かせぎ、小金にきたないこと、会議好きetc、……と思い当たることがあるはずである。(p.152)

なぜ「マイコン」の本でこんな話が展開されているのか不思議に思うかもしれませんが、これは「マイコン」というか「コンピュータ」やそれを使った研究が、どういう目的で悪用されてしまうか、ということについて論じている中の一節です。「非専門家に対する権威主義的恫喝」に利用されてしまうということを警告しています。昨今この手の悪用の中で目に見えてひどいのは「統計」に関するものだと私は思っています。この本の中では「統計」については何も言及していませんが。

もう少し引用してみましょう。科学者が普通の官僚よりも悪質であることについて言及しています。

科学者は、少なくともシロウトには、論証なしの結論を押しつけてくる。しかも最近は、「以上のことは、X時間のコンピュータ解析の結果得られた結論であります」としめくくるであろう。(略)官僚の天下りは、彼が退官前に行使していた行政権力の残光のために可能だ。しかし、この場合には少なくとも現在は彼が公的な権限を何も持っていないことが、誰の目にも明らかだ。一方、科学官僚の実質的引退は、じつは一般の人々にはよく視えない。非科学者には、彼の発言の何処までが、彼の仲間である他の官僚によって検証可能な科学的内容なのか、どこから先が政治的意図をもった独断なのか、判然としない。(略)民間人は、数学者は自分たちよりもっとこの世界の論理関係が透明に視えているのではなかろうか、素粒子物理学者ともなると、科学全体が見透せるのではないか。生物学者は……などと考えてしまう。じっさいには、物理屋は彼の方法の及ばない所で、やたらと「機械的」唯物論をふりまくし、生物学から人間を提えれば、おおかた、最も保守的な思想が出てくるにちがいない。(pp.153-154)

この引用部分の意見には私自身の経験などからいっても全面的に賛成できます(「提えれば」は「捉えれば」の誤植じゃないか?とかは思いますけど:笑?)。著名になった科学者(「科」をとって学者一般で良いと思うのですが)の多くは実はすでにモノを考える人間としては死んでいます。中にはちゃんと生きている人もいますが、大部分はゾンビです。そのゾンビが勝手なことをフガフガいっているだけなのに多くの一般大衆はそれが何か専門的な知見に裏付けされたすぐれた意見だと思わされてしまいます。でも彼らは実はゾンビ(つまり脳はほとんど機能していない)ですから、長年研究して来たピンポイントの内容を除けば、まともな知力のある学者ではない人よりきちんとした意見を述べている可能性は極めて低いんですよね。

原発事故に際してテレビで解説していた自称専門家の多くは、実は「原発」の専門家ではなく関連分野の専門家だったそうで、だからこそのデタラメ解説だったようです。

で、『マイコン』では彼ら科学者=官僚は反論や追及を避けるために「擬人化したコンピュータ」を盾にしようとするだろうと予測しています。

コンピュータの機構を知れば、それがプログラミングという人間の側の司令なしには、決して走らないことは自明である。にもかかわらず、「官僚」はコンピュータを擬人化するための共同戦線を張る。彼らがいうことは一致している。つまり、「機械が考え、行動する」というわけだ。「官僚」はすべてコンピュータの背後にかくれて、銃弾を避けたがっている。そんなわけだから、彼らにとって、コンピュータの操作卓に座るような人間---この人たちは、現在、身分も安定せず、かなりの重労働を強いられているのだが---は、幻想保持のため、どうしても仲間うちに留めておきたい。(p.156)

確かに「コンピュータが...」とかを理由にして追及を避けようとする言動を私も見たことがあります。さすがにパソコンがここまで普及した現代ではもうちょっと工夫した言い方をするようですけど。専門家がコンピュータを使って解析した結果だとか統計学によればどーのこーのとか。

実際に「これは統計学による客観的なナニソレだから...(反論の余地などないはずだ)」みたいなことを言われた経験があります。追及を避けて相手を黙らせる切り札くらいに思っているんですね。相手にも統計学の知識があって、同じ分析を使える能力があるなんて全く想定していない。で、(彼らにとって)予想外の反論を喰らわせると幼児退行かと思うような菅直人式反応を返してくるので更にウンザリさせられます。

フリーの統計処理環境「R」がある現代では統計データの数値計算なんて(必要な知識さえあれば)誰でもできることを知らない輩がまだまだたくさんいるのでしょう。かつて連中が相手を黙らすために用いていた「文句があるなら追試でもやってみれば?できないだろうけどね、ププ」というのは通用しにくくなっています。科学者=官僚の用いる権威主義的恫喝を覆す機会は以前より得やすくなっていると考えてよさそうです。

ただそうはいっても結局肝心の裁判所の裁判官だとか学界のおエライさんといった「審判」役がまるで統計がわからん(というか基本的に話が通らない、両者とも「官僚=科学者」ですからね)ので、対抗手段は極めて限られている状況にかわりはないということでしょうか。残念ですけど。マスコミや一般大衆の皆々様に期待するわけにもいきませんしね。

『マイコン』では上記引用箇所に続けて「キミはマイコンのキーボードを、真の意味で自由に支配することができるだろうか」と問うています。科学者=官僚の手練手管に絡めとられ、弾圧支配のコマとして利用されることを避けきれるのか?という問いです。

日本最初の「マイコン」であるTK-80を作ったNECのパソコン部門は中国の連想集団(レノボ)に買われてしまったそうですね。所謂「PC」を作ったIBMのパソコン部門もしばらく前にレノボに買われています。もともとIBMにとってPCは鬼子だったようですけど。それをいったらTK-80も似たようなものかも。

なんとなくプロメテウスの神話を思い起こしてしまいます。極少人数だったPC開発チームのリーダーは飛行機事故で報われぬままの非業の死を遂げたそうですし。

あと生き残っている「パソコン」の始祖からの系統は Apple 社のものですが、iCloud などといって中央集権的というか、ソフトウエアの私有財産権を踏みにじるようなプロジェクトを実行しようとしているように見えるのですが、これは私の目の錯覚なんでしょうか。iTools は延々改悪され続け、ついにiDisk まで廃止されるようなんですけど、別に誰も騒いでませんね。やっぱり私が何か勘違いをしているのでしょうか。そうだといいけど。

『マイコン』の誤植

前述した欠点についてです。イラストがシモネタでも見なければ良いだけですし、見ても気分を害する程度ですが「誤植(?)」の方は結構深刻です。

具体例をあげますと、p.40 に出ている2進数、10進数、16進数の関係について述べた部分で「10進数 27=2進数 00011011 =16進数 13」と書いているのですよ。御丁寧に2進数の部分を左4桁と右4桁に分けてそれぞれを16進数に直して組み合わせると簡単に16進数に換算できるということまで書いてあって、そこでも「0001」を「1」、「1011」を「3」としています。

このあたりの換算について分かっている人が読めば10進数の27は16進数では「16の1乗かける1たす16の0乗かける11つまりB」なので「1B」と計算できます。2進数の「1011」も「2の3乗かける1たす2の2乗かける0たす2の1乗かける1たす2の0乗かける1」で「11」となり16進数では「0123456789ABCDEF」と数えますから「B」だとすぐわかります。なんでそれが「3」になるのか...といえば書いてる人か印刷屋さんがわかってなくて「B」に似た数字で「3」にしたのかな...とこれまた邪推する他ありません。

また p.116 では JPZ というニーモニックの説明をする際の条件についての部分が、そのあと例としてあげたプログラムの中で期待される動作と真逆の内容になっていました。

JPZ n ...アキュムレータ(ACC)の値が0のときは、プログラムカウンタに値nを入れ、0でないときは、プログラムカウンタ(PC)を1つ進める。

一応原文ママです。二度目に出て来た用語の後ろに略称を入れてるのもなんでかわかりませんけど。プログラムカウンタというのはプログラムの実行順番号みたいなものだと理解してください。アキュムレータは...邦訳すると「累算器」というようですが、後述するTK-80なんかでは単にAレジスタと呼んでいて他と区別していないようです。なんでしょうね、計算するときにとりあえず値を入れておく場所みたいなものかな。正確じゃないかもしれませんが。

サンプルプログラムは1から10までの数字を足して和を求めるというものです。プログラム前半は、12番地に入っている値(初期値0)を取り出してACC上で11番地に入っている値(初期値1)を足し、その結果を12番地にコピーしてから13番地に入っている値(初期値0)をACCで更に加えて13番地にコピーする、となっています。この過程がループすると12番地には11番地に入っている1を毎回加えていくことになるので値は 0、1、2、3、4、5、6、7、8、9、10と変化していきます。そして13番地にはこれらの数値を加えていった総和が順に代入されていくことがわかります。

プログラムの後半ではまず10番地の値(初期値10)をACCに取り出して11番地の値を引いてから10番地にコピーします。11番地に入っている値は1でこれは変わりませんから、要は10から順番に1ずつ減らして行くカウンターなんですね。

で、問題のJPZはここで使われます。JPZ 0と書いてあって、事前の説明通りだと ACCが0のときはプログラムの先頭(PC0)に戻り、そうでなければ次の命令を実行することになります。次の命令というのはHALT、つまり終了です。

直前の処理でACCは10から1を引いた9のままで0ではありませんから、これだとループしないでそのまま終ってしまいます。「0でないときジャンプ」して「0のとき終了」したいのですから、まるで逆ですね。

長々書いてしまいましたが、16進数のことやアセンブラでのプログラムについても私は今これがかかれた時代より遥か未来にいますから「ぷ、激しい誤植ワロタ」といってられますが、他に参考資料もない時代にこれを読んで理解しようと思ってた人にとってはすごく辛いことになってたんじゃないかと思います。なんだかな。

アセンブラ

私が最初にお小遣いで買った「マイコン/パソコン」は Sinclair ZX81 でした。

>>

当時は三省堂書店で売ってました。メモリが1kBだったりキーボードの各キーにBASICで使うコマンドが割り振られていたりと、ちょっとアレな感じのものでしたが、基本を学ぶには良かったと思います。参考図書は『よくわかる マイコンの使い方遊び方』一冊で、繰り返し読んでました。

この本にはゲームのサンプルプログラムもありましたが、それは当時の少年が想起するゲームとはまるで違う「ライフゲーム」や「囚人のジレンマ」といったものでした。他にも「ヒストグラム」の作り方など今から思えば面白くて役に立つ基礎だけど子どもは喜ばないよな...という内容です。でも子どものうちにこういうものに慣れ親しんでいたのは良かったかな、とは思っています。

その後はファミコンの誘惑からはなんとか逃れたものの、結局MSXをお年玉で買ってしまいゲームカセットを突っ込んで遊ぶ堕落の道に走りました。根性もなかったので Login誌 に時折掲載されていたマシン語のゲームプログラムを自分で入力することもなく、以後スカリー時代のMacを買うまで計算機からは離れます。

ただ後々まで「マシン語」というのが気になっていました。確か ZX81 用のマシン語の本を買ってあったはずなのですが、なぜかこの本だけは実家の地下を調べても見当たらないんですよね。おそらく『ハンドヘルドコンピュータシンクレアZX81の活用法』だったんじゃないかと思うのですが。

ちなみにZX81でマシン語を覚えた...という人に意外な有名人もいるようです。

>> Aphex TwinとZX81とマシン語

「おいらが11だったとき、ZX81でサウンドを創りだすプログラムを書いて、それでコンテストの賞金50ポンドを勝ち取ったんだ。普通はZX81でサウンドを創ることは不可能だけど、おいらはマシン語をいじくりまわして、TVの信号の音の調子を変えるいくつかのコードを創ったんだよ。このコードはボリュームをアップして調整することで、本当に奇妙なノイズを生み出すことができたんだ」
(出典:The Face John O'Connell, The Face, October Issue 2001)

こんな武勇伝があったとは知らんかった...。さすがねこぢるさんが愛してやまないだけのことはある。「マシン語」を使えばこんな風にコンピュータに限界を越えた得体の知れない何かをさせることができる...という期待があったので、できれば理解したいな、という思いはずっと残っていたんです。ただ「マシン語」を人間がプログラムできる環境としては8ビットCPU(命令セットの最大値が256)が限界だと言われているので、現代のパソコンで使うことは不可能なようなんです。

そんな感じでもんもんとしていましたがリベンジのチャンスが意外にも2000年頃にきます。日本における原初の「パソコン/マイコン」であるTK-80のシミュレータが出たんです。『復活!TK-80』がそれです。買ったら安心して全然プログラムを組んだりはしてないんですけどね(←!)。

ちなみにTK-80の実物はこんな感じ↓です。

>> TK-80 Demo

アセンブラとかハンドアセンブルとかいう太古の技術について(相対的)ヤング相手に解説してます。かなりわかりやすいのではないかと。

その後は学研の『大人の科学 vol.24』についてくる4ビットマイコン(正体は電子ブロックの部品の単体売り)などというのも出ました。大昔のものの復刻なのでプログラムは「マシン語」での入力になります。一方8ビットの方(『大人の科学 vol.27』)の正体は Arduino クローンで現代のものなので、パソコンとUSB接続してC言語でのプログラム入力なのだとか。いずれにせよ電子データの処理だけでなく現実に機械を制御するためのプログラミング、というところに結構ワクワクするのですが、まあ、そんな場合でもないので(涙)。

でも昔から微妙な夢として「太陽電池でバッテリーを充電する機能がある」「バッテリーが減ると光のある方を感知して移動し日光浴等々で再充電する」「バッテリーが十分にあるときは音に反応して音がする方向に向かって移動するか、適当な条件にしたがってひたすらウロウロする」というような仕様のロボットとか作ってみたいというのがあるんですけど、ちょっと知識があれば案外簡単に作れそうな気がしてはいます。

旭山動物園の園長さん

H大柔道部だったんですね。

>> 「旭山動物園の奇跡はすべて七帝柔道から学んだ」

H大に入学した当初、高校で柔道部だった友人に「大学でもやるの?」と聞いたところ「寝技ばっかりで耳が餃子になるからやらない」と言っていたのを思い出します。そのときは普通の柔道のルールで戦う中でH大柔道部は立ち技をあまり重視しないという伝統があるのかな、くらいに理解していました。

でも違ったんですね。旧七帝大すべての柔道部が普通の柔道と全く違うルール、1チーム15名同士での勝ち抜き戦という特殊な競技をやっているという意味だったようです。今まで全く知りませんでした。「寝技ばっかり」というのは旧七帝大すべての柔道部がそうなんですね。

なんというか、実に身近なところにこんな凄まじいことをやっている人達がいて、なおかつずーっと気づかなかったとは。ていうか同窓生では普通に柔道部に入ってたのもいたけど、こんなことしてたんだ...。ちなみに大学でも柔道部に入ってたこの同窓生は高校の授業の乱取りで気持ちよく何をされたかわからないうちにオイラをぶん投げてくれました。それ以来柔道の有段者には格別の敬意を抱くようになり今に至るという感じです(笑?)。でも彼は立ち技を封印されてたんだろうなあ。

>> 七帝柔道を見た!

旭山動物園の園長だった小菅正夫氏がホッキョクグマの攻撃をかわした話が出てます。おそるべし。でも耳が餃子になるのはやっぱやだな...。

ボランティア

畏友の通称「ニッコリ」さんが宮城県にボランティアで出かけ、瓦礫撤去を手伝っていたことを知りました。フットワークが軽く気配りができ、思いやりのある(つまり私とは真逆の:笑?)人物なのはよく知っていましたが、そこまでとは思っていなかったので思わずウルっとくるほど感動しました。でも本人には伝えず、こんなところに書いています(←!)。

宮城では相当な量の瓦礫がまだまだ手つかずの状態で放置されているようです。一方岩手県ではそれと比較すると瓦礫の撤去はそれなりに進んでいるようです。

部外者の私が適当に推理すると、これは両県知事の復旧/復興についての考え方の違いによるのではないかと思えます。政府が見通しや計画を全く示していないので、しかたなく知事が最終的な決断をしており、そのため両県で違いが出ているのでしょう。

宮城県知事は復興後のあり方をどうするか、という計画立案など未来のことについて注力しているようで、とりあえずどんな形でもいいから少しでもはやく被災者を当面の苦痛から救うという方針ではないのだと思います。そのため瓦礫の撤去などについて現時点ではあまり積極的に動いていないのではないでしょうか。

一方岩手県知事は地元出身ということもあって、とにかく目の前の被災者をいますぐ救いたい、できるだけのことはしたい、という方針で動いているのではないかと思います。

心情的には岩手県知事の方に賛同しますが、宮城県知事のようなやり方の方が大きな実を結ぶ可能性もないとはいえません。かつて空襲でメチャクチャになった日本の主要都市について、新しい都市計画に基づき再生させるプランあったそうですが、ほとんど実現できなかったのだとか。唯一部分的に実現したのが名古屋の道路だ...と何かの本で読みました。名古屋の道路は確かに他の大都市に比べて惚れ惚れする出来です。無理にでも戦後にこうした都市計画を実行していれば...と現代からみれば思えてしまいます。

いずれにせよ難しい問題ではあるのでしょう。

とりあえず、そんな感じで。

July 15 Friday 2011

自転車に乗り始めてからの体重変化

人体実験によって得た貴重なデータです(笑)。でも恥ずかしいので具体的な数値はお見せしません。

>>

期間は2008年12月29日から先週までです。気が向いたときに適当な回数測った体重について一週間毎に平均値を出してプロットしてます。毎日同じ時間に同じ条件で測り続ける...などという几帳面なことは到底出来そうになかったので、こんなやり方にしてみました。自転車に乗り始めたのは2009年の夏以降だったと思います。確か8月くらいかな。グラフでいうと派手で細かい上下変動が止まって連続かつ緩やかに減少し始めているあたりでしょうか。

そのあと無理して12月頭まで雪が消えれば乗るみたいに頑張ってた感じだったように思います。11月末に雪のせいでコケて記憶を失って脳外科でMRIという貴重な体験もしました。その甲斐があってか自己暗示かよくわからないのですが、年が変わるところでガクッと体重が減っています。

年始からは全く自転車に乗っていないので2月末か3月くらいから上昇基調に変わっていますね。ただ去年は確か雪解けがはやく4月くらいから(泥をかぶりながらも)それなりに走れたように記憶しています。それもあってか段々距離も伸び出した6月頃から勢い良く体重が減り始めました。

昔の服が次々着られる様になってワロタだったのですが、残念なことに冬が来るのが割とはやく、また11月に初めての「ハンガーノック」気味症状を味わってすっかり怯んだこともあって若干早めの店じまいをしました。思えば2009年にも11月に危険な目にあっているので、シーズン終りの慣れ切ったあたりでの過信による事故に要注意ということでしょうか。

そして年の変わり目に痛恨のリバウンドがやってきます。ギュンと増えてるあたりがそうです。その後なんとか壊滅的被害(?)を食い止めつつ今に至るという感じです。昨年ですともうグングン下がっている時期なのですが今年は全然です。

理由は実に簡単で「乗ってないから」です(涙)。6月の頭にちょっと乗って、7月なんてほとんどゼロです。いろいろ差し迫っているのでまるまる一日潰れてなおかつ下手すると後遺症(笑)が残る遠出は自粛せざるを得ない状況なんです。なむー。

ところで実は2010年からは体脂肪率のデータもとっています。それによるとすでに体重激増の気配が出ているんですよね。体脂肪率もずいぶん変動の大きい値が出やすいものなんですけど、週間平均値でプロットしていくと割と安定した感じで体重の増減と似たグラフになります。それをみると、どうも現時点で体脂肪率の数値が一段階上がっている感じなんですよね。何か対策をしないとリバウンドがガンと来るかもしれません。

BibTeX

ずいぶん前からそれなりに必要なソフトウェアなりなんなりを用意はしてあったものの、なんだか面倒そうだと思って放置していた BibTeX に関してもなんとかしようと取り組みだしました。一応最低限度の理解ができて、作成したTeX文書内での自動で行なうアレコレの実験(?)も成功したようなので、ここらで文献情報をすべて .bib 化しておこうかと思っています。

ていうか、誰かが「いやー .bib とかいってるけどテキストデータだよ?」って一言いってくれていればもっとずっとはやくになんとかしたのに。孤独にやってるとこういうこと多いよな、と思う。情弱コミュ障か...。

それはともかく、以前ものっすごく適当に作った XML による参考文献等々記録用ファイルなんかを .bib 化するスクリプトを作ったり、.bib ファイルがどんなものなのかよくわかってなかったときに適当に出力してそこらに散らかしてた奴なんかを集約しないといけません。

なんだかいつも思うのですが、何かをやろうとするとその準備のための何かが必要になり、その何かのためにもまた何かが必要で...という具合に無限に遠ざかって行くようなのですけど、他の人はこういう問題をどう処理しているんでしょうかね。勤勉さで乗り切っているのでしょうか。どうなんだろう。このせいで予想外に時間と労力をとられてしまうんですよ。ほんと困る。

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

最近微妙にH大出身者が文筆の世界で活躍しているとかいう話を聞きます。例によって詳しいことは知らんのですけどね。芥川賞方面でもどーのこーのと聞きましたが、何やら今回は「該当者なし」だとか。票が割れて過半数をとった人がいないからだとかいう理由も漏れ聞こえてきますが、それならアサブキナントカさんのときみたいに受賞者二人にすればいいじゃんか、と思いましたが何か条件があるのでしょうか。ま、民間営利企業がやってることなんだから別に公平性とかなんとかは関係ないんでしょうしどーでもいーですな。

で、唐突に話は変わるというか戻るのですが、増田俊也さんという『シャトゥーン ヒグマの森』という作品で有名な作家先生がおられます。この方もH大出身なんだとか。4年間柔道部にいて中退...ということなので、たぶん学部に進学しないで留年していて教養部にいられる4年をオーバーした感じなんじゃないかと思います。恥ずかしながらこの方のことはついこの間知ったばっかりなので、全然作品も読んでなくてネットで適当にググった情報しかないのですごくウロな書き方になってますが。

とりあえず上記『シャトゥーン』は相当怖いらしいです。ていうか、ヒグマの恐怖は森の中をチャリで走る習性(?)のある私にとっては超リアルな恐怖なので、読んだら泣くかもしれません。

が、その先生が何やら「木村政彦」さんという武道家についての本を(今年9月に)出す予定なのだとか。格闘技雑誌にこの7月まで連載していて、それをまとめるそうです。私は格闘技にもてんで疎いので「木村政彦」さんのことも全く知りませんでしたが、適当にググってみただけで血圧が急上昇しました。

キ タ ナ イ!! 

オトナとかテレビとかメディアとか キ タ ナ ス ギ ル!!!そんでもって一般大衆は バ カ ス ギ ル!!!政府高官だの政治家だのヤクザだのだのについてはいうまでもない!!!ブッコロ!...されないように気をつけよう...(←なんだよ!)。

私が以前読んだ事がある本だと、例えば『東京アンダーワールド』なんかには言及もあったようなんですが全然記憶に残っていませんでした。その該当箇所は以下のような感じです。

「プロレスブーム」と呼ばれるこの現象は、正確には一九五四年二月十九日の夜に始まっている。その日、かつてないほどドラマチックなタッグマッチが、東京でおこなわれた。かたや、サンフランシスコからやってきたプロレスラー、「シャープ兄弟」こと、ベンとマイク。迎え討つ日本側のコンビは、「力道山」と称する二十九歳の元相撲力士と、日本アマチュア柔道選手権十連覇の実績をもつ木村政彦だ。(p.55)

戦後「プロレスブーム」の起点となった試合のメンバーとして確かに木村政彦の名前はあります。でも実際の試合の印象は以下の通りだったようなのです。

ところが試合が始まると、驚くべきことが起こった。力道山がリングに飛びこんで、マイク・シャープに強烈な空手チョップを浴びせたときだ。そのあまりの猛攻に、アメリカ人がじりじりと後退しはじめたではないか!参ったとばかりに、相棒にタッチすると、観衆は驚きと喜びとにどっと沸きたった。代わってリングに入ったベン・シャープにも、力道山は容赦なく攻撃を浴びせ、コーナーからコーナーへと追いつめる。ベンはとうとうリングにへたりこみ、目を白黒させる。すかさず力道山は押さえ込んで---ワン、ツー、スリー!ファンは総立ちだ。座布団やら、帽子やら、とにかくいろんな物が飛んでくる。場内は今や集団ヒステリー状態。(p.57)

全く木村政彦のことは出てきません。正力松太郎がこの「試合」について「プロレスで巨大な白人たちを叩きのめした力道山は、日本人に誇りと勇気をとりもどさせてくれた」と言ったと書いてもあります。ここでも木村政彦は無視されているんですね。まるでいなかったかのようです。

この本では上記引用部分以降は興行主が「悪役ガイジン」レスラーを調達するために東京に(当時三万人ほど)住んでいた西洋人に目を向けて云々、というような話が展開されています。シャープ兄弟は本物のプロレスラーでしたが、そういう(芸達者な)人達は日本に毎回呼ぶにはお金がかかりすぎます。なので、ただやられ役をやるだけなら身体の大きい西洋人でさえあれば誰でもいいということになったんですね。「試合」がものすごく不自然であっても白人がやられるところが見たいだけの日本人観客は全く問題にしないことがわかっていたので、それで十分だったということのようです。いずれにせよ、以後「木村政彦」の話は出てきません。力道山に関してはpp.119-138にまとまった記述がありました。その最後はこんな感じに締められています。

墓石にはブロンズ製の等身大の胸像が刻まれ、その下には<百田光浩>と、日本名が記されている。「金真洛」という名前はどこを探してもない。北であれ南であれ、朝鮮出身であるという記述も見つからない。リキの墓は、幾層もの嘘の積み重ねを、永久に保存する記念碑として建っている。「新しい日本」の基礎づくりに貢献した。嘘の積み重ねを。(p.138 )

一方、増田俊也著『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』は、シャープ兄弟との試合のしばらくあとに起きた「力道山による木村政彦の不可解なKO」事件の真相について迫って行く力作なのだそうです。この事件というか試合は動画サイトを探せばたぶんすぐに見つけられるんじゃないかと思います。事情をわかってこの惨劇をみるともう血圧がヤバいです。

とはいえ、まだこの本を読んで詳しく真相を知ったわけでもないので(一応暫定的には)何の罪も無いプロレスファンに八つ当たり(?)のインネンをつけてまわったりするのは自粛しておきましょう。ただ、現時点でも「なるほどなー」と物の見方が変わったことはあります。

>> グレイシー神話の崩壊と...

たとえば今適当にググって上記引用先サイトをみつけてきたのですが、1990年代中盤以降の日本の総合格闘技ブームにおける「日本の選手(プロレス出身)」と「グレイシー一族」との戦いを前者の側にたって記述しています。一応同じ日本人が外国の人と戦うのであれば日本人を応援するというのが暗黙の了解というか、自然な態度ではあるので当然ですね。

でもこの件に関してだけは本当は間違っていたのかもしれません。「日本のプロレス」とそれが連なる表・裏両方のアレな人々の都合によって何十年も不当に貶められていた武道家「木村政彦」先生の名誉を回復したのはグレイシー一族だったわけですから、日本のプロレスラーやプロレス出身の総合格闘家と試合をしているときには(たとえ彼らがブラジル人であっても)グレイシー家の人達にこそ声援を送るべきだったんじゃないのかな、とすら思えて来ます。彼らがプロレスラーをボッコボコにしたのは木村先生の敵討ちみたいなものだったんじゃないのか、とか。桜庭が勝ったー!とか喜んでる場合じゃなかったんじゃないのか、とかとか。このあたりについてもおそらく簡単に割り切れるような事情ではないのでしょうから、あんまりナイーブなことは言うべきではないのでしょうけれど。

>> 増田先生のブログ

少部数で刷りますので、確実に手に入れたい方は、お近くの書店で御予約ください。アマゾンではまだ予約できません。書店で御予約ください。

需要はあんまりないという予測なのか...。あちこち口コミで広がったりしそうな期待もあるんだけどなあ。どんな内容なのかサワリを聞いただけでも面白そうとは思ったけど。でも実際の連載紙面とかも見てないのでなんとも言えん感じもありまするが。

とりあえずそんな感じで。

July 08 Friday 2011

内田樹先生

いろいろ相変わらず煮詰まっていて他人様にアレコレ言ってる場合ではないのですが、久々にキレたのでちょっと書いておきます。なぜこんなにものが見えないというか、平気で間違ったことを書けるのか、全然理解出来ません。この方の書く物は大部分がそうだと思うのですが不思議なことにずーっと支持され続けてもいます。

たぶんその秘訣は断片的あるいは部分的に取り出すと正しそうなこと言っていたり、実態を無視して一般論にしてしまえばなんとなく筋が通っているように見えることを書くからじゃないかとは思っています。大多数の人々にとっては文章を読むということは、適当に抜き読みしてなんとなくわかった気分が味わえれば十分というものなんでしょう。権威とされる人の書いたものの中に「わたしもそう思う!」的な部分が見つかれば自分が肯定されたような気がして支持するという感じかな。

いずれにせよ暇つぶし用娯楽の一つくらいの認識で、さほど真剣には考えていないのだと思います。

で、具体的に何に私がキレたのかといいますと、これ↓です。

>> 暴言と知性について

まず冒頭から大間違いをしています。なので論(?)が前提から成り立っていません。少なくとも現実との間に接点がなくなっています。

松本大臣が知事に対して言ったことは、そのコンテンツだけをみるなら、ご本人も言い募っていたように「問題はなかった」もののように思われる。Youtube で見ると、彼は復興事業は地方自治体の自助努力が必要であり、それを怠ってはならないということを述べ、しかるのちに「来客を迎えるときの一般的儀礼」について述べた。(略)だから、問題は発言のコンテンツにはないのである。発言のマナーにある。

宮城県庁での一件について書いていますが、松本大臣の発言の「コンテンツ」には問題がなかったと言っています。正気とは思えません。彼が言っていたのは「自助努力が必要」などという一般論ではないのです。

宮城だけのことをいえば彼は「(水産特区は)県でコンセンサスを得ろよ」としか言っていません。この「水産特区」は(県外の)大資本を導入して漁師さんをサラリーマン化しようとする県の政策と関連したもので、当然強い反対もあります。従来通りの一匹狼的な自営業漁師さんとサラリーマン化した漁師さんとで共存できるのかどうか等々色々と調整が必要な問題があって、おそらく県だけでこれを処理することは非常に難しいはずです。それを「政府は関知しない」と言い切ってしまうのは仕事を放棄しているのと同義で無責任です。ですから内容的にも非常に問題がある発言です。

ついでに言うと「自助努力」云々は主に岩手県での発言だったかと思います。「知恵を出したところは助けるが、出さないやつは助けない」というものでしたでしょうか。これも相当おかしい話です。「知恵」という言葉で彼が何を意味しているのかよくわかりませんが、被災地からの具体的な要望や要請はこの四ヵ月近くの間ずっと政府に送られていたはずです。そして彼らがそれをほとんど放置していたため予算がつかず、現地では苦労しているのです。まるで今まで被災地の自治体が何もしていなかったかのような言い草ですが、これは実態と乖離した発言でその内容には意味がありません。

宮城に話を戻しますと、彼の発言のもう一方「来客を迎えるときの一般的儀礼」の話も「コンテンツ」に問題があります。大臣が来客を迎えるときには自身の執務室で迎えるのでしょうから、そういうときに部屋に大臣がおらず来客を待たせては変です。しかし、知事の場合は応接室に客を通し、執務室からその部屋へ出向いて迎えるのが通例なわけですから、この手続きに非礼な部分はありません。松本大臣の指摘は間違っています。

大物である自分を岩手でのように玄関で待って出迎えるのが当然だろう!と言いたかったが、それをいうのが憚られたので別の形で難癖をつけたということかもしれませんが、いずれにせよ内容に事実誤認があったのは間違いありません。「コンテンツ」に問題はあったのです。

なので出発点から現実に基づいていない内田氏の論考は空虚なものに終始します。

怒鳴りつけられたり、恫喝を加えられたりされると、知性の活動が好調になるという人間は存在しない。だから、他人を怒鳴りつける人間は、目の前にいる人間の心身のパフォーマンスを向上させることを願っていない。彼はむしろ相手の状況認識や対応能力を低下させることをめざしている。どうして、「そんなこと」をするのか。

「怒鳴りつけられたり」すると「知性の活動が好調になるという人間は存在しない」といっています。これは嘘です。いい加減に舐め切った態度でタラタラやっている人間を怒鳴りつけたりするとシャキっとすることはよくあります。恫喝によって相手の記憶力が非常によくなって、それまで忘れていたことを思い出したりすることだってあります。そういう人間は存在するのです。だからこの引用部分での論も前提から間違っています。

パフォーマンスの向上を願って怒鳴るというケースが普通に存在する以上、怒鳴る人間は相手の能力低下(だけ)をめざしている、と考えてその動機を探る論考にはほとんど意味はありません。少なくとも現実におきた具体的事例についての考察としては無価値です。

今回彼が辞職することになったのは、政府と自治体の相互的な信頼関係を構築するための場で、彼が「マウンティング」にその有限な資源を優先的に割いたという政治判断の誤りによる。

しかし松本大臣の行動が「マウンティング」を目的としたものだった、という指摘に関してはその通りかもしれません。間違った前提に基づいていても途中の論も何もかもメチャクチャなせいで逆にこういう風に部分的に「正しい」ことが内田氏の論にはよくあります。ただ、なぜ松本大臣の態度が「マウンティング」なのかといえば、それは彼が怒鳴ったり恫喝口調だったからというのが主たる理由ではありません。

間違っている事や、実態にそぐわない認識、堂々たる責任放棄、そういうデタラメを受け入れる様に宮城県知事に迫ったことが「マウンティング」に相当するのです。マスコミに報道しないよう恫喝したのも同様です。オレ様がそういうのだから白を黒といえ、という類いの強要行為が問題なのです。これは静かで丁寧な口調で言ったとしても「マウンティング」であり「パワーハラスメント」です。純粋な能力の不足によるのか、何らかの意図によるのかは判別できませんが、とにかくデタラメを強要する大臣であることが明らかになった以上、災害復興の現場に大混乱をもたらすのを防ぐために辞職を求めるのは当然でしょう。

ですがもし「コンテンツ」に誤りがなければ、つまり間違っているのが宮城県知事の方であったのであれば、彼の行為にはさほど問題はありません。そして結果的にそれによって「相対的な優位」を確立したとしてもそれはあくまで正当な行為のオマケにすぎません。間違っているものが正しいものの指摘をうけて修正するのは当たり前の事で、その言い方がどうのこうのというのは瑣末な問題です。これが瑣末な問題と感じられないのであれば、そう感じる人間こそが「相対的な優位」の確立を最重要課題と考えているからにすぎず、そう感じる自分を恥じて改めるべきだと思います。この点は強く要望したい。

内田氏はこのあと「上意下達の組織作りを優先」すると組織内の人間が「バカ」になるように互いに努力するものだ、というようなことを述べて、それによって日本は腐ってしまったと結論しています。これもこの部分だけ抜き出すと正しい結論に見えます。ただそこに至るまでの論考には首肯できません。

組織内の構成員が「相対的な優位」を得るために(間違いに対して怒鳴ったり恫喝したりして?)相手の能力を低下させる戦略をとるというような説明ですが、これは「マウンティング」が「正しい判断をするもの」から「間違っているもの」に向けてなされる、という理解に基づいていますので正しくありません。先に述べたように間違いの修正を求めるだけなのであればそれは正当な行為ですのでさほど問題はないのです。

もちろん「間違いの修正」にも色々ありますので留意は必要かと思います。嫁イビリに見られるように「うちの作法と違うから間違い、ちなみに作法がどんなものかは教えない」というような方式もありますし、絶対にこなせない量の(不慣れな)仕事を押し付けておいて必然的に発生するミスや不具合をあげつらう例(「忠臣蔵」浅野vs.吉良)などもあります。

ただ、これらの例外的事項についても、無理難題やデタラメを相手に呑ませることによって「相対的な優位」を確立することが「マウンティング」なのだ、という理解に含めて良いとは思われます。とにかく、正しいことをいって相手を納得させて凹ませるだけなら問題行為ではないのです。

ですので相手が本当に「バカ」になった結果、間違ったことを「正しい」と信じて納得して受け入れるのであれば「デタラメを無理に呑ませる」ことによって期待できていた効果は逆に減少してしまうのです。

そうではなくて、愚かな人間のいう間違った話や命令を、能力の高い人がそれを間違った話だと理解しているのにもかからず、何らかの理由(事なかれ主義?)で呑み込んでしまうということを繰り返しているうちに、命令に従ってさえいれば自分には何の責任もないのだ、という考えが支配的になって個々の構成員のほとんどがマネジメント意識を放棄した状態になってしまう=組織が腐る、ということなんだと思います。

これは東京電力、経産省、民主党、「原子力ムラ」の御用学者たち等々すべてにいえることではないでしょうか。無能で「相対的な優位」にしか関心のないバカが「マウンティング」を繰り返しているうちに組織の上層に登り、構成員のほとんどは自己の責任や義務について真摯に考えることをやめてしまう...というのが腐った組織の特徴ではないかと思います。

教師として私は、若者たちに「知性が好調に回転しているときの、高揚感と多幸感」をみずからの実感を通じて体験させる方法を工夫してきた。その感覚の「尻尾」だけでもつかめれば、それから後は彼ら彼女らの自学自習に任せればいい。いったん自学自習のスイッチが入ったら、教師にはもうする仕事はほとんどない。

相手の知的パフォーマンスを下げることで組織が腐ると考えた内田氏はその逆の例として自身の教育経験の話をします。上記引用部分で述べられていることは、理想的な大学教育環境下における理想的な教育のあり方として完璧なものだと思います。本当の知性はこの方法でしか育ち様がない、と私も同意します。自学自習で育つ力に大部分はまかせ、相手の性質を見極めて必要な肥料や水や陽の当たり具合を調整し、無駄に伸びた茎や葉は剪定して形を整え...と、あまり繊細ではない種類の植物を育てるような感覚なんだと思います。

ですがこのパターンに合致するタイプの学生ばかりしか相手にしない、ということが果たして可能なのかという点では疑問を抱きます。実際にはもっと色々なケースがあるのではないでしょうか。

「お前はバカだ」と言われて、頬を紅潮させ、眼をきらきらと輝かせて、「では、今日から心を入れ替えて勉強します」と言った学生に私は一度も会ったことがない。

内田氏が「お前はバカだ」と相手に言わない以上、そういう学生に出会わないのは当然ではないかと思います。しかし「バカだ」「ものを知らない」という指摘が本当だった場合にでも、こういう反応をする学生はいないのでしょうか。その指摘によって初めて今まで自分が想像もしていなかった未知の何かが存在することを認識して、それによって「知性が好調に回転」しだして「高揚感と多幸感」を味わう事例が全くないとは私には思えません。知的好奇心が最優先である種類の人間には、相手のマナーなどは割とどうでも良い問題と認識されていることが多いように(私の経験からいえば)思えます。内田氏が上記のように述べるのは自身が知的興奮などは(少なくとも「発言マナー」に比べて)割とどうでも良い問題と考えているからではなかろうか、という疑いが拭えません。

現状認識やなすべき手立てについて、自分と考え方が違う人と対面状況に置かれたときに、多くの人は、両者の意見の相違の理由をもっぱら「オレが利口で、あいつがバカだから」と思い、口にもする。 だが、当人が言うように、知的力量にほんとうに天地ほどの差があるのなら、相手を説得するくらいのことはできてよいはずである。

「あいつがバカだから」と「知的力量に(略)天地ほどの差がある」ことは同義ではありません。なので「相手を説得するくらいのこと」は簡単ではないし、可能ではないことの方が多いと思います。今すぐは出典が探せないのでうろ覚えで書きますが、小林秀雄は「バカというのは能力が足りていない人のことではなく、あれはあれで完成されているということを見誤るとあぶない」というようなことを言っていました。その通りだと思います。「バカ」は単に「知的力量」が少ない人間のことではありません。

松本大臣の発言については記者会見で具体的な点を指摘して「おかしいのではないか?」という類いの質問もだされていました。私が上で指摘したように明らかな誤謬が含まれていたのですが、彼は自分の発言や認識に誤謬があるとは一切認めていません。それこそ「発言マナーには誤解される余地があったかもね」くらいのことしか言っていません。間違いを指摘して説明するのは「知的力量」の範疇かもしれませんが、それによって相手が説得されるかどうか、はまた別の問題です。

そもそも議論のルールを守る気がないのであれば「説得されない」ということには何の技量もいりません。「認めない」「わからない」と言い続ければいいだけです。いやむしろ何も言う必要さえありません。無視して答えなければ良いのです。これなら「なぜ認めないのか」「どこがわからないのか」と聞かれることもありません。無視したまま自分の主張だけを繰り返し述べていれば、そのうち相手も呆れて黙るかもしれません。

これもデタラメを呑み込ませる「マウンティング」の効果的手法の一つです。別に脅しは必要ありません。脅しが無い方がむしろ呑み込ませやすくなります。「オレを説得できないのだからオマエは正しくない」とか付け加えると、より効果的かな。この手法を積極的に使っている人物について思い当たりますが、ここで名前をあげるのは控えるとしましょう。

私が今回の松本大臣に関する一連の報道で一番怒りを感じる部分は、上記のように彼の発言にあった誤謬に関してちゃんとオチがついていない点でした。辞職によってその問題は全部ウヤムヤのまま忘れられていくものと思われます。この件だけでなく、東電や経産省や政治家や学者たちの震災や原発事故に関する様々な問題発言や問題行動についても、たとえば「爆破弁」に関するデタラメ解説など全く明らかな誤謬についてさえ何一つきちんと謝罪や訂正がなされたものがありません。

松本大臣の「暴言」は単なる非礼によって咎められるのではなく(十分咎めてよいレベルだが)、この危機的状況において、彼の威圧的態度が「バカを増やす」方向にしか働かないであろうこと(それは日本の危機を加速するだけである)を予見していない政治的無能ゆえに咎められるべきだと私は思う。

これが内田氏の結論です。これも至極もっともな話に見えます。ただ私は前述の通り「威圧的態度」そのものについては特に良いとも悪いとも言えないと考えています。そうした態度によって「デタラメを強要しようとしたこと」が問題の本質だからです。

今回の事件で幸いだったのはマスメディア(東北放送)が「オフレコにしないと会社を潰す」という脅しに屈せず(つまりデタラメの強要を拒否して)「マウンティング」を不首尾にした点です。また一旦はデタラメの強要を受け入れて愛想笑いと御機嫌取り発言(「防災相だった方なので心強い」等々)をしていたにもかかわらず、報道を受けて松本大臣の発言内容への正当な反論を行なった宮城県知事も理不尽を認めないという点で良かったと思います。

東北放送が報道したおかげで「マウンティング」を防ぎ、宮城県が腐敗することも食い止めることができましたが、逆に言えば、もし東北放送が屈していれば腐りっぱなしになったろうということです。マスメディアの役割は非常に大きいと思いました。

内田氏は「メディアの相変わらず他罰的な論調を見ていると、メディアにはほんとうの意味で危機感があるようには思えない」と書いています。「他罰」という言葉には「自分を棚にあげて他人ばっかりあげつらう」という含意もあるのかもしれません。内田氏の世界観では相手の間違いを指摘して論争することはすべて「相対的な優位」を獲得しようとするのを主目的とする無意味な戯れ行為であるので、危機的状況において政治家等のデタラメ発言を糾弾することは危機感のない行為だと言いたいのでしょう。

非常に狂った虚無的で非科学的な世界観だと思います。

松本大臣の発言を巡る騒動は、ハッキリとは決着がついたとは言えない部分もあるものの、彼の対峙者である知事およびマスメディアとの間の正誤論争において彼の方に非があると認められることで決着がついたのであって、彼の話し方が相手の能力を引き出すような言い方だったかどうか、内田氏がいままで学生に対して示してきた態度と同種のものであったかどうか、というようなことが問題なのではありません。

マスメディアがデタラメ発言をした人間や組織を徹底的に追及することには何ら問題はないと思います。むしろそれを今まで碌に行なっていないことこそ「危機感」の欠如の表れなのではないでしょうか。今回の件でも在京メディアは容易に屈するつもりだったことが伺いしれます。震災以降の多数の問題発言や問題行動についても何一つまともに追及できていません。追及しないのか、そもそもその能力がないのかはわかりませんが。

未曾有の危機的状況において自己の「相対的な優位」の確保だけを目的として行動するのがバカげているという指摘は正しいと思います。東京電力が原発事故の処理にあたって現場の指揮権を巡って抵抗したなどという話も聞きます。こんなときに党内闘争をやっている政治家もいます。彼らは救いようの無いバカだと思いますが、そういう彼らを(願わくばこの世から)排除したり改めさせたりするにはどうすれば良いと内田氏は考えているのでしょうか。松本大臣の件では辛うじて効果のあった「間違いを指摘して論争すること」を否定した上で、いったいどのように対案となる具体的方策を示すつもりなのか、この記事からは全く伺い知れません。

まさか(内田氏が学生にしてきたように)優しく工夫を凝らして忍耐強く説得してあげれば良いとでもいうのでしょうか。そうすることで彼らの「知的パフォーマンス」が向上し「コミュニケーションを順調に推移させる」ことが可能となる日が来るとでも?

June 2011

June 29 Wednesday 2011

分析ツール

ほとんどまだ何もできない状態ですが一応ネット上にあげて動作を確認してみています。α版以前という感じです。ほんとうに作業が遅くて鬱になります。例によってユルユルのパスワード認証をかけました。

>> TPTB

期待の星だった英語を含む多言語形態素解析ツール TreeTagger は「オマエのクソMacはミーを実行するにはBad CPU typeデーッス、ザンネン w」みたいな捨て台詞(?)を吐いて起動してくれませんでした。手を尽くせばなんとかなるのかもしれませんが萎えてしまってやる気がおきません。案外レンタルサーバとかの方が問題なく動いたりするんでしょうか。よくわかりませんが。

とりあえずフィルタリングみたいなことは品詞情報には頼らず手動でチマチマ選定していく...という方針にしたので、必要なのは「原型 lemma」化だけということになります。これだけでもやってくれるようなツールは無いのか...と探したところ最適なものを公開してくださっている方がいました。

>> 朝尾幸次郎先生のレマタイザ

地獄に仏とはこのことです。ありがとうございます&幸あれ。でもGPLに従えって書いてありますね...。私はGPLを何回読んでも(読もうとしても)よくわからんピーマン頭なのでちょっと困ってしまいます。なのでスクリプトから必要な箇所を戴いてこちらのCGIスクリプトに移植するのではなく、レマタイザには改変を加えずにそのまま動かすことにしました。これならGPLに抵触しないのかな?どうなんだろう。頭が悪いのは悲しいことです。

それはさておきCGIスクリプト内から馴染みの system関数を使って動かしてみました。High-Frequency List(実は高頻度「内容語」リスト) という項目の分析ツールを選ぶところで Lemmatizer を選択するとこれを使います。英語のテキストに対しては、 Raw(分割するだけ)とレマタイザが対応しています。日本語のテキストを読ませるとエラーになるので注意が必要です。言語の区別は Uploader でリンクをクリックしてテキストの中身を読んで判断してください。ローテクですみません。

逆の場合も同様なのですが日本語に関しては MeCab も Chasen もレンタルサーバにインストールできていないのでそもそも使えません。ただそれだと「ほんとに何にもできんのな w」と言われそうなので(言われてもその通りなので別にいいのですが :p )原型化したデータサンプルを上げておきました。これに対して Dealing with Parsed Data (←変な英語:汗)というのを選ぶと作表できます。日本語に関してはかなり(私基準の)「非内容語」を省いていますので、なんとなく分析対象テキストの内容が伺い知れるような結果がでてます。英語の方はまだほとんど何も設定していません。

しかしそういう相違点を考慮しても、やはり英語における単語というのは日本語の単語と全然違うな、という印象を受けます。仮名文字とアルファベットの差のようなものが単語同士を比較した場合にもありそうです。いくつかの単語がヒトカタマリになってようやく何か特定の意味を表し、日本語の単語と同程度に意味のまとまりとして機能するという感じです。

KWICツールの方も一応機能するようにはなりました。検索には正規表現が使えます。単純に文字列でマッチさせているだけなので検索する側で工夫してもらわないと余計なものを拾ってきます。大文字小文字は区別しません。今の所「ツール」はこの二つだけです。予定では次に非類似度を測定するツールを組み込もうと考えています。これは他の二つと比べてそれなりにオリジナリティのあるツールとはいえるかもしれません(他の二つは既存のものの劣化版ですからね...)。

それと4年前に作って放置していた分析ツール本体の方はまだまだ(といっても時間がないので大急ぎでやらないといけませんが)解読(←!)と作り直しに時間がかかるので公開は先になりそうです。あと作業の順番としては最後の方になるのでまだ何も調べていないのですが「R」をレンタルサーバで使う方法ってあるんでしょうか?私のこの分析ツールは最終的に R 用のスクリプトを吐き出すようになっているんですよね。まあ、使えなかったとしても吐き出したスクリプトをダウンロードしてもらって各人が自分の環境で「R」に読み込ませれば事足りるでしょうからそれでもいいか...。

今回「レマタイザ」をCGIスクリプトから使う際に上記ツールに関しても「PerlスクリプトそのものをCGI化するんじゃなくて単に system ("perl hogehoge.pl $mokemoke"); ってCGIスクリプトに書いてやるだけで問題なく使えるんじゃね?」と気づいたので(英語用に改変すれば)割とすぐに対応できそうな、そうでもないような。

とりあえずそんな感じで。

June 26 Wednesday 2011

「鍋って味噌もあるんだ」

元ゴーバンズの森若香織さんへのインタビューを発見しました。聞き手の方がちょっと尋常じゃない(笑?)せいか、いろいろ興味深い話が読めます。

>> OGな人びとVol.55

この人のラジオ番組を聴いてたな、そういえば。最近また(当時のままのしゃべり方&テンションで)ラジオなんかに出ているみたいです。当時ファンだった人達が雑誌や放送業界に結構いて、その人達が色々仕事を依頼してくるというようなことを言っていたような。元バービーボーイズの杏子さんも似た感じですかね。そういえば彼女もラジオやってたな。白石公子さんという詩人のお友達を出してたりしてたのを覚えています。

で、インタビューですが色々「へー」と思うようなことを語っています。たとえばゴーバンズのデビューは釣りをしに北海道に来た忌野清志郎氏が偶然(解散記念の)デモテープを聴いたことからトントン拍子にすすんだ結果だった、とか。

森若:「初めてでした。で、清志郎さんが『俺たち、あそこでやってんダゼ!』って。『ダゼ』とか言って(笑)。あの人、やっぱりすごいですね。威圧感を全く与えない。で、『君たちもやりなよー』って。ふつうに『コーヒー飲みなよー』ぐらいの感じで。アタシたちも素直に『そうかー』と思ったんですよね(笑)。すごい短い間だったけど、すごい濃い、いいつきあいをさせていただいた」

下心もなくフラっとサラっと(結構な額と労力をかけて)人助けをする...格好いいです。なんだか亡くなってからの方が「あの方は紳士でした」系の美談をよく聞く気がします。

あとバンド解散の経緯について書いてあるところも面白かった。

森若:「あれは衝撃だったなぁ(笑)。口を開いたかと思ったら『ポン酢のお鍋しか食べたことない』とか、そんなんだったから『もう私と光子はダメかもしれない!』って思ったのをすごく覚えてる」

脱退するといいだしたドラムの巨人を引き止めようと鍋をつくって話し合いに臨んだ森若氏に対しての第一声が「鍋って味噌もあるんだ」だったので、もう無理だと覚悟したという話。ちなみにベースの人は当時まだ有名ではなかったスピリチュアル某江原啓之の占いで脱退してしまったのだとか。ほんと碌でもないことしかしませんね、この人は。

碌でもないといえば「尾崎イズム」について話している部分もちょっと面白かったです。尾崎イズムがどこから生まれて何を残していったのか、とか誰か研究して明らかにして欲しいです。尾崎本人は自分が歌っているようなことを本気で思っていたわけでもないみたいなので、なんでこんなことになっているのか謎なんですよね。

森若:「私、何年か前に、女優としてお芝居をやったときにね、私が一番年上だったの。台詞で『学校なんて火事になって燃えてしまえばいい、とホントは思ってた』みたいな告白をするシーンがあったんだけど、全く共感できなかったんです。で、他の若い出演者の子たちに聞いたら、みんな『共感する!』って。なんか、尾崎理念があるんですよね。尾崎イズムが!」

結構長いインタビュー記事なので色々読みどころはあるのですが、私が個人的に「!」となったのは以下の部分です。

森若:「テキトーでいいんですよ。テキトーにやってればいいんですよ。『こいつ、すっごいムカつく』って思っても、そこに対してテキトーに(笑)。一個ずつ全部、真剣にやって行くと、おかしくなるのが当たり前ですよね」

バンドの解散というかメンバーに捨てられる経験などを通して到達した境地なのかな、と思います。私による個人的統計解析によると(笑)実力の割に不遇な目にあう確率の非常に高い「KAORI」さんなのに比較的幸せそうで例外的存在なのですが、その秘訣はこんなところにあったのかもしれません。テキトーと真剣を使い分けられるようになればいいんですね。勉強になったかも。

日本語形態素解析器

分析ツールのCGI化...にあたって、4年前に作って放置していたスクリプトをとりあえずそのままで動かしてみましたが、案の定途中で止まりました。まずは日本語形態素解析の部分でストップ。このスクリプトにもいくつかバージョンがあって、Chasenモジュールを使ったものと system関数を使ってChasenを動かしているものとがあります。確かChasenモジュールは何か問題があって(それが何だったのか覚えていません...単に指導教官のパソコンに入ってないから...だったような気も)使用をとりやめ、system関数を使って無理矢理な感じで動かしていたような。

といいますか、当時私が作っていたスクリプトは何かと言うと system関数ばかりでした。途中の処理は awk用のスクリプトを書き出してからこれを使ってそのスクリプトを動かして...みたいな変なことをやっていたんです。なので処理途中のデータも配列なんかに読み込むのではなく、いちいち紙にメモするみたいにファイルに出力してました。最後に system 'rm hogehoge.txt'; みたいなのを書いてお掃除する感じです。ひどい有様でホント恐縮です。

というわけで(?) MeCab を導入してみました。現在の最新版は0.98のようです。ソースコードでの配布なのでUNIX慣れしていない私には恐怖でしかない「 make でどーのこーの」をやらなくてはいけません。案の定エラーが出て困り果てましたが、ネット上で先人からの有り難いお知恵を拝借し、なんとか事なきを得ました(Mac OSXの場合は configure の一部を書き換える必要があるようです >> make chack時のエラー解決法)。ちなみにターミナルで MeCab からもとに戻るには Control + D です。これがわからなくて焦りました。

ところでソース元が配布している Perl用「バイディング」の MeCab.pm とCPANで配布している MeCabモジュールの関係ってどうなってるんですかね?よくわかりませんが。「バイディング」の導入には以下のリンク先を参照しました。非常に助かりました。

>> MeCabをPerlから使う方法

上記サイトに出ているサンプルスクリプトを改変してMeCabを使って必要な情報を取り出すのは割と悩まずにできました。ありがとうございます&幸あれ。ただ同時に結構な衝撃も受けました。なんというか、スクリプトに激しい違和感を覚えるんです(笑?)。オシャレすぎるというか。

たぶん現代のPerlスクリプトはこんな感じの記法なんだろうなあ...というのは漠然と認識しているのですが、でも現代っていっても引用先は2006年のものだし、私が古いというかポンコツすぎるのでしょう。とはいえ、非常に読みやすく書かれていたので「表層形」「読み」「品詞」の順に書き出すスクリプトなのはすぐ理解できましたし、私が取り出したい情報である「原型」と「品詞」だけを出力するように書き換えるのは容易でした。「原型 lemma」は word type を計数するときに必要で「品詞 POS」は内容語を残して機能語を排除するフィルタリングのときに必要になります。

英語形態素解析器

何か勘違いしてしまって Text::ParseWords を英語の形態素解析ができるものだと思い込んでいました。パーサーは分けるだけでタガーじゃないとそういうことはしない、という理解で良いのでしょうか。でも以前使ったPOS情報つきで分解するヤツはパーサーといっていたような。気のせいかな。

それにしてもひどかったです。Text::ParseWords っていったい何の役に立つんですかね。不思議です。$lines みたいなスカラー変数に分析対象のテキストを全部読み込むとするじゃないですか。で、これを @words = quotewords(" ", 0, $lines); みたいにして処理するんですけど、結果は @words = split(/\s/, $lines); と変わらんのですよ。ただ分けるだけ。

そして結果は同じなんですけど処理スピードはバカみたいに遅いんですね、これが。まるで意味がない。しかも $lines の中身が大きくなるとエラーを起こすという駄目さ。イヤガラセか!と思いました。

しかたがなく英語形態素解析器をさがしてみると TreeTagger というのがありました。一応必要なファイル類はとってきましたが、例によって色々うにゃうにゃ儀式をやらないといけないみたいなのでまだ作業には入っていません。というか MeCab もそうなんですがレンタルサーバーにもインストールできないとネットに公開するCGIスクリプトで使えませんよね。面倒くさくてどうにかなりそうです。

岩手県沿岸

現地からの報告によれば、釜石は商店街などの原形がまだ残っているためにかえってゴーストタウン感が強かったとか。信号があるのに機能していない町、というのは確かに見た事の無い風景かもしれません。釜石大槌山田というあたりの道には人気がなく、パトカーをみかけるとすごく心強かったそうです。まだまだまだまだまだ復興には程遠い状況のようです。ここのところまた地震が活発化していきているので本当に心配。

そんな感じで。

June 22 Wednesday 2011

苦情

昔やってたブログの2005年4月に書いた記事に関して今年の4月に苦情というか間違いの御指摘&お怒りのコメントが寄せられていたことに今更気づきました。6年間(本人も含めて)誰も気づかなかった(←気づいても「アホだコイツ」と思っただけで指摘する気にはならなかった人はいたかもしれません)ことにちょっと驚いたりもしつつ、大慌てで訂正しました。やり方も忘却の彼方でやや難航しましたが。

ブログのような適当メディアであっても書き手の責任というのは重いものがあるな、と反省しきりです。この「昔やっていたブログ」は各方面にケンカを売ったり文体が変だったりと色々問題というか誤解されやすい点が多かったこともあって、この日記と直接関連づけるようなことは控えていました。いまだにそれなりのアクセス数があるようなので「もったいない(←?)」というか読者様をこちらに誘導するサービスをした方がいいのかな?と迷うこともあったのですが、やっぱり関連はさせないという判断で正解だったようです。もちろん間違いの指摘や御意見&御感想はいつでも大歓迎なんですが、それだけでは終らない部分もあるので。

テキスト分析ツール

思っていたよりずーっと難航しています。手始めに軽い気持ちで作ってみたKWIC(←キーワードインコンテキスト...要はキーワードを真ん中にして前後数文字分を抜き出して文脈中での使用状況を表示する)ツールさえ期待通りに動かない始末。なぜか前後の文字数を増やすとキーワードのヒット数も減って行くという怪現象が起きています。パターンマッチ処理がバグっているのでしょうが、どう間違っているのかがわからないんですよね。文字数増加時にどういう用例がカウントされなくなっていくのかを具体的に見て傾向を掴めば解決するかもしれませんが。

でもKWICは分析ツールの本筋とはあんまり関係ないので時間かけたくないんだけど...とウジウジしているうちにどんどん時間が過ぎていくので、さっさと取り組んだ方がマシかもしれません。

あとPerlにもともと組み込まれているパーサーだということで期待していたText::ParseWordsモジュールなんですけど、なんだか期待はずれっぽいんですよね。うーん...。

コグさん

上記「昔やっていたブログ」で2度ほど若干批判的に言及したことがあり(←「シャラポアの乳首がどうとかスポーツ選手をヨゴレ的に扱うのはどうなのか」&「シトロエンBXを素敵な外車くらいの認識で乗ろうとするのはどうなんだ」←余計なお世話ですよね:笑)アクセス解析のせいかどうもこちらで言及しているのがアチラにも伝わってて気を悪くされていた感じもあるコグさんという編集者の方がおられます。もう何年も存在を忘れていましたが「そういえば大船渡出身といってたな」と思って久々にググってみました。

>> コグのデジジョ
>> 日帰り帰郷報告

ユーモアを交えながら淡々とした印象さえうけるような客観的で抑制された書き方をしていて、それでも沸き起こるすさまじく強い感情については身体感覚の変調によって表現しています。いろいろな感情がダイレクトに胸に伝わって来るようでした。

そういえば大船渡出身の新沼謙治にインタビューした吉田豪さんという人が感想として「(新沼謙治は)自分のことを人ごとみたいに話すので面白い」というようなことを言っていましたが、大船渡の人は割と皆さんそういう話し方をするそうです。

>> 新沼謙治さんのラップ1
>> 新沼謙治さんのラップ2

とりあえず、そんな感じで。

June 14 Tuesday 2011

バジル

バジルの苗を買いました。

比較的近所にある大型スーパーの青果コーナーだとバジルの葉が2、3枚で100円とかなんです。そこに隣接するホームセンターで売られている198円の苗には5、6枚以上の葉がすでについていますから、いきなりあるだけ毟ってしまって捨ててもこっちが得です。なので自転車で来ていてウチまで7kmくらいあったのですが小さめで葉に元気があるのを選んで持って帰りました。ついたころにはヘナヘナになってましたけど。

その後鉢に植え替えてから泥縄方式で色々調べました。日光&水&肥料はやりまくって問題無しだそうです。日光好きは共通しているので先住植物のユッカエレファンティベスと同じ場所に並べて置いておけます。このユッカに以前何も知らないで水をやりすぎてあわや全滅という惨事を引き起こして以来植物に水をやるのに精神的抵抗があったので、ややリハビリにもなるかもしれません。

で、特に何かの役に立つと思って買ったわけではないユッカと違ってバジルは収穫の楽しみがあります。傍芽が伸びてきたのでセオリー通りに先程葉を摘みました。最初の収穫は微々たる量ですが折角ですのでバジルソースもどきを作ってみます。

>> ジェノバソースの作り方

でも「松の実」が入手できないんですよね。クルミやカシューナッツで代用するという話も聞きますが。とりあえずナッツ系は抜きにして擂り鉢でゴリゴリとやりました。擂り鉢だと色々大変だという噂も聞いていましたけど、さすがに微量なのですぐソースになります。バジルの保存法には他に塩漬けなどもありますが、こっちの方が用途が広いかもしれません。

あと上記リンク先の注意点に「バジルは水で洗うな」とありましたが今回はガッツリ洗いました。ホームセンターの店先で何を被ったかわかりませんし、そこら中でセシウムが検出されてますしね(←!)。

フォッカッチャ

数年前から小麦粉を捏ねるようになって段々色んなことにチャレンジするようになってきていました。チャパティ→(重曹を使ったパン類)→麺類...という具合に技術革新と実験を繰り返してついにイースト菌を使用する段階に到達しました。やっぱりバイオはいいですね(笑?)。本格感があります。

イースト菌使用パンとしては、まずもっとも原始的な「フォッカッチャ」を作ってみました。膨らみ方を均等にするために型抜きで穴をあけたり試行錯誤している過程で「茹でる」工程が入った「ベーグル」(膨らまないようにしてつくるパンですけどね:笑)にトライ。自転車で遠出するときの携帯食料としても非常によかったのですが、思った以上に「茹でる」工程が面倒だったので結局最初のフォッカッチャに戻りました。イイカンジに膨らませることと、モッチリした小麦感というか旨味感(?)のバランスをとるのが結構難しいな、という感想です。まだまだ試行錯誤中。

また技術的な課題としては(オイラは生粋の怠け者なので)もっとも簡単といわれるフォッカッチャの作業工程を更に減らすことがあげられます。表面へのオリーブオイル塗布とローズマリー散布を省略しても大丈夫かどうか現在検討中です。

>> Focaccia Blues予告編

そんなこんなで、調理動画を探していたら超絶クソ映画というかイタリア映画っぽいのが引っかかってきました。絶対日本で公開しないでしょうけど(笑)...と思いつつ気になって関連動画を見てみつつ、全く分からない言語で話されている内容を推察すると、これはどうも噂に聞く「世界中に蔓延るマクドナルドを世界で唯一イタリアだけが駆逐できた」伝説に関する映画っぽいですね。意外とオモロイのかも。

>> Euro News "Focaccia Blues"

全く何言ってるのかわからんけど。

Uploader

ファイルをアップロード(&ダウンロード)するためのCGIを作ってみました。

>> アップローダー

本当なら3ヵ月以上前にとっくにできてないといけないものだったのですが、ようやく形になり始めたところです。分析ツールをCGI化しようと色々やっているのですが、まずなんといっても簡単にファイルのアップロード&ダウンロードができないと話になりません。

ササッとでっち上げてチェックしてみると早速16MB程度のファイルでもサーバーエラーがでる問題が発生。CGIスクリプトで公開するツールだと本格的な分析に使ってもらうというよりは「実演販売(←?)」みたいなものなので小規模データしか扱えなくても問題はないのかもしれませんが、不便といえば不便です。

このエラーはインターネット上だけじゃなくてMac上のWeb共有でやっても起きるので何か特殊なことをしないと容量制限は解除できないってことなのかな?うーん...と思ってスクリプトを確認したら何のことはない、自分で制限をかけていました(滝汗)。何やってんだか。でも折角なので(←?)ネット公開版は制限を残しておきます。

いずれにせよ、とりあえず上記アップローダーはもうちょっと弄ってそれなりに(画像公開ツールとしてとかの用途で)使えるっぽい雰囲気にはしておこうと思います。分析ツール用の部品としてはとりあえずこの段階で十分なのでもう弄る必要はないんですけどね。

BBSと同じく検索除けの意味も込めてユルユルなアクセス制限をかけていますが、オモシロ画像などあったら遠慮なく気軽にアップロードしてみてください。アップロードされたファイルの名前には表示というか整理のために勝手に日付コードが加わります。それとデータの消去などは勝手なタイミングでやりますのでバックアップ等々は(必要なら)しっかりお願いします。

手袋の不足

津波被害の被災地ではゴム/ビニール手袋が不足しているという話を聞きました。気温も上がってきて衛生面でかなりマズいことになっているようです。

今はまだ現場の人達が水際で踏ん張ってなんとかしているようですが、そこら中でモノが腐ってすごいことになっているのだとか。震災から三ヵ月後の現在でも瓦礫の下から死体が出て来たりする状況ですし、瓦礫自体もまだまだまだまだ片付いていません。でもその大変さが今ひとつ現地の人以外には理解されていないのだとか。「この間送ったばかりなのに、なんで?」みたいなことをいわれるそうです。

とりあえず、そんな感じで。

May 2011

May 31 Tuesday 2011

たちきり

フジテレビが配信していた落語の Podcasting 番組がリニューアルした(らしい?)のを機会になんとなく購読するのをやめて、他のを探したところ「イーフロンティア」というところがやっているサイトがあるのを見つけました。

>> いーふろん亭 ぽっど寄席

どうもこちらは以前あったニフティ寄席の系列みたいですね。二つ目の人達がやっています。フジの方はロッテのコマーシャルと「ツカちゃん」さんのプロデュースというか演出センスというかが結構キツかったのでこっちに逃げてきました(笑?)。それにしてもラジオCM的なものはPodcastで配信するときにはそれなりの工夫をしないと誰も得をしない状態になるんじゃないかと思います。

以前あった村田製作所提供のサイエンスサイトークもCMパートがすごくキツかった。殺意を覚えるレベルでした。一方このイーフロンティアがやってる落語番組は落語家さんが商品の宣伝文句を自分なりにいじった上で語ってくれるので聴きやすくていいです。Podcast用CMは可能ならみんなこういう感じにしてくれると助かるんですけどね。ある種のCM制作業者はそれだと商売あがったりなんでしょうけど。

で、この間過去の配信を遡って「たちきり」という演目を聴きました。有名なものらしいのですが、聴いたのは初めてで...かなりの衝撃でした。何が衝撃だったかというと「ひさちゃん」を連呼されたことです。母方の親戚や祖母が私を呼ぶときの言い方とそっくりだったのでびっくりしました(笑?)。本物の寄席で回りにお客さんがいるところでの初見だったらヤバかったです。大顰蹙をかうところでした。涙を流している人もいる中で爆笑しちゃうもんな(冷汗)。落語家さんが上手で真剣にやってればやっているほど「ひさちゃん」という呼びかけに熱が入り、オイラの笑いのボルテージも上がって行くという悪循環...。

ちなみにこの「たちきり」は「たち切れ(線香)」ともいうようでもともと上方落語の演目だったそうです。そのときには登場人物の名前も違って「ひさちゃん」こと「お久」は「小糸」というようです。

更にこの間 Podcasting 版の Saturday Waiting Bar Avanti を聴いていたら加藤夏希さんが落語好きだという話をやっていて、この「たちりき」が最も好きな演目だといっていました。でもこの話のあらすじを尋ねられてこたえた中に謎な部分があるんですよね。

最後に聞こえて来る曲の音が「ひきなれた琴の音」だっていってたんですけど、これって「死ぬ間際に届いた(若旦那があつらえた)三味線」の音ですよね。もうその頃には演奏する力もなくて、ちょっと音をならしただけで死んでしまうという話のはず。これがどうして「ひきなれた琴」になったんだろ?そういう風に変えてあった話を聴いたのかな?琴と三味線ではかなり(大きさ的な意味で)趣が違って来るというか、芸者さんって琴を抱えてお座敷にやってきたりとかするんですかね?

なんでしょうね、彼女なりに聴いた話を(若いウブな男女の悲恋という形に)合理化しようとしたらこうなったということなんでしょうか。三味線だとプロっぽい?というか最後のオチをどう考えたんだろう...とか割とどうでもいいけど謎です。「栄養失調で死んだ」とかも言ってたしな。食事も喉を通らず、風呂にも入らないで横になったまま衰弱していくのを「栄養失調」と理解するのか。まあ、そういえばそうなのかもしれんけど(苦笑)。

この「たちきり」なんかについてもそうですが、落語の演目について「長い時間をかけて磨き上げられて無駄の削ぎ落とされた話だ」というように説明する人がいます。落語家さん自身、それも名人とか言われるような人がそんなことをいってますね。精髄だの神髄だのそういう言い方もされます。

でもそれは違うんじゃないかな。「客にウケるために様々な矛盾する要素を詰め込んだため本来なら破綻している話を毎回語り手がギリギリの調整をしてなんとか成立させている」というのが実態なんじゃないでしょうか。だからこその「話芸」だと思うんですけどね。ドヤ顔で破綻したままの話をぼろっと披露したりいい加減に誤摩化してる落語家さんも結構いるみたいで、なんだかなっと。

おためごかし

津波被害で発生した瓦礫もまだまだまだまだ片付かず、防波堤も防潮堤も破壊された状態なので台風やら何やらの被害に対しては無防備なまま、被災地は被災地の状態から改善されることなく取り残されている現状があります。こんなんじゃほとんど無政府状態と変わらないですね。

それに加えて原発事故も悪化するばかり。対人スキルというか、取り入りたい相手の好む煙草の銘柄を調べておいてサッと取り出す系の能力しかもたず、それだけで世を渡って来た人達があらゆる重要案件の決定権を持っているのがはっきりしてきました。当然ながらコイツらはコイツらの井戸端評議会的決定(仲間内の気分と目先の利益調整だけに基づく決定)が何の意味もなさない対象には全く対処できないわけです。この点では全くの無能。ところが組織や共同体の中で自身の利益を最大化するとか地位にしがみつくとかいうところでは相変わらず最大限の能力を発揮するので、まともな処理の足を引っ張り妨害することにかけては極めて有能で...という本当に悲惨なことになっています。

どうすりゃいいんですかね。明治維新直後なんかはよく不平士族の方々がそういう連中を斬り捨ててくださったようですが、昭和以降は226事件などの例でも明らかな様にそういうことをしてもちっとも世の中がよくならず、かえって悪化してしまうのが悩みどころです。中国では王朝は倒れてもこういう人間たちはしぶとく生き残って階層をつくって士大夫となったようなので、今後は日本もこういう人達に食い物にされるだけの国になってしまうんでしょうかね。っていうか、もうなってんのか。

で、この流れで言及するのもナンですが御用学者として悪名を轟かせている中川恵一先生の発言についてちょっと触れてみたいと思います。これなんかを読んで「!」とか「?」とかならない人がいるのが不思議です。

>> 崩壊した「ゼロリスク社会」神話

「私の恩師の養老猛司先生」という一節にまず「!」と思いますけど、それはさておきましょう。日本人が社会に「リスクが存在しない」と思い込みリスクを見ないで普段は生きているくせに、ちょっと危険なもの(=「垣間見える」リスク)には「過敏な反応」をしめすのがアホだといっています。原発のリスクを存在しないといってきたのは自分たちな癖にこの開き直りと誤摩化し。自分がいっていたことを人がいったことにするのはこの種の人間の常套手段ではありますけど。

そして「放射線被ばく」のリスクは大したリスクではない、それなのにリスクそのものが存在しないと思い込んでいるから過剰に反応するのだ!落ち着け!といっています。曰く、「200ミリシーベルトの被ばくでがん死亡率は最大1%上昇する可能性がある」けれども野菜を取らないことや受動喫煙、肥満や運動不足、塩分の取り過ぎも似たような「がん死亡率」の上昇を引き起こすのだそうです。

毎日三合のお酒を飲むと「がん死亡率」は2000ミリシーベルトの被曝に相当(1.6〜2倍上昇)するため、それらに比べると放射線被曝などは「誤差の範囲」なのだとか。なので、リスクの存在を自覚しつつ今を大切に生きることが人生を豊かにするのだ!とかぬかしてます。

ええと、ちょっとお茶を入れてきます...(怒りのあまり手が震えていろいろこぼしたりひっくりかえしたりしつつ)...ふう。なんなんでしょうね。この方はエライ先生なんですよ。しかもお医者様なわけです。医療についても統計に関しても専門家のはずです。だからわかってなくて書いてるとは思えません。わかってて書いてるということは、本当にひどい「おためごかし」だということです。

まず「200ミリシーベルトの被ばくでがん死亡率は最大1%上昇する可能性がある」という言い方が読み手に混乱をあたえます。必要なことが書いてないんですね。200mSvの被曝とはどのくらいの時間的範囲の話なのでしょうか。200mSv/hなのか200mSv/年なのか。それとも一生涯分の積算でしょうか。年1mSv以内の被曝だとすると120年生きても120mSvなのでその線も考えられます。まあそもそも外部被曝についてなのか内部被曝についてなのかも書いていませんしデタラメな書き方ですけど。

ところでここでいう「がん死亡率」というのはどういう数値なんでしょうか。「日本人の半数が、がんになるというのに」とは書いていましたが「がんになる」ことと「がんで死ぬ」ことは同じではないので「がん死亡率」が50%ということではないと思います。適当にググってみますと「日本人男性の2人に1人が癌になる。3人に1人が癌で死亡する」のだそうです。あとこのようなデータ↓もあります。

>> 疾病構造予測 全癌 日本 男子

改めて考えてみても中川先生が「がん死亡率が上昇」というのをどういう意味でいっているのかきわめて謎です。死因にしめる癌の比率が上昇する、ということではないでしょうし。発癌した人が治療しても助からない率が上がるということでしょうか。それも変ですね。またたとえば死因に占める「がん死亡率」が30%だとしてそれが「1%上昇した」という場合、「31%になる」という解釈と「30.3%」になるという解釈が成り立つような気がするんですが、どうなんでしょうね。いずれにせよこういうところでウヤムヤにするのもその種の人の常套手段なのでしかたがないのですが、なんとか付き合っていくことにします。

上でリンクしてみた資料からよくわかるのは、癌というのは年齢に強い相関のある病気だということです。野菜を食べないとか喫煙とか毎日大酒を飲むというのも一生涯かけて積算された上で影響を及ぼすもののようで「がん死亡率」の上昇を引き起こすにはそれなりの時間がかかるんですね。だとすると放射線被曝というのは全くこれらと違うことが明白じゃないですか。いくらでも短時間で大量に被曝できるわけですし。

一生涯のうちどこかの時点で発癌する日本人男性が50%だとしてもそれは大抵の場合高齢になってからで、40歳を越えてから死亡率も上昇していくということは統計的事実のようです。ところが放射線被曝によって上昇する死亡率はこういう傾向とあまり関係がないわけです。200mSvの被曝で上昇する1%の「がん死亡率」は(実際にどうかはわかりませんが)とりあえず年齢による差がないリスクだと考えられます。本来ならほとんど発癌率のない世代でも発癌するということです。

簡単のために1%の上昇を発癌率における数値としましょう(なので多めの数値になります)。学生数300人の中学校(男子校)にある年在籍していた生徒を標本とすると、彼らが一生涯を通じて発癌する期待値は50%なので150人が発癌すると予測できます(実際には偶然取り得る値の幅というのがあって変動しますが、簡単のためにこう書いておきます)。ところがこの学生たちは200mSvの放射線被曝をしてしまっていたので(そして幸いなことにのちの人生でそれ以上の被曝はなぜか避けることができたため)発癌率が51%となりなんやかんやで一生涯のうちに153人が発癌したと100年後の追跡調査でわかったとします。

中川先生はこの「3名」なんかは「誤差の範囲」だと言っています。「誤差」という言い方はどうかと思いますが確かに実測してみると期待値50%で153名が癌になる場合もあるでしょうし、逆に51%で150名ということもあると思います。実際に数値計算をしていないので断定はしませんが。

ですが、これは誤摩化しです。上昇分の発癌が40歳以下で発生する可能性があることを無視していることがその第一点です。「いつ癌になったか」を問題にしなければ、どちらのケースでも確かに同じようなものかもしれません。しかし先に述べたように、喫煙の習慣などが中年以降になった場合に影響するものであるのに対して放射線被曝はくらった時点でリスクを増大させます。つまり上昇分の発癌は在学中に起きる可能性が高いのです。

中川先生が「誤差の範囲」と呼ぶ変化は、幼稚園や小学校や中学校、高校など現時点では滅多に癌患者がいないところを日常的に癌患者がいるような世界に変えてしまうのです。友達を子どもの頃に癌で失う思い出をもつ人がたくさん生じるということです。これを「誤差の範囲」と呼ぶのでしょうか。私には劇的な変化に思えるのですが。「試練をプラスに」とかよく言える。

せっかく学校にあがるようになった自分の子どもが発癌して苦しんでわずか10代のうちに死んでいくのを看取っていく親が決して少なくない数発生してしまうことが予測できるのに、そういう人達に向けてもこんなことを言うのでしょうか。吐き気がします。

...で、誤摩化しのもう一点は、統計データの「誤差の範囲」についてです。が、これについては結構説明が面倒なので後で気が向いたら書きます。

とりあえずそんな感じで。

ポンコツ更新

実は4つ更新してました。第五回第六回第七回第八回です。

小見出しリンク

前回更新くらいから密やかに「小見出しリンク」の実装(←そんなたいそうなもんじゃないが:汗)テストをしてみています。「■たちきり」みたいな感じでリンクできます。 今回の日記だと末尾#0531aが最初の小見出しで#0531bが次のやつ、以下#0531c、#0531dとなってます。もうちょっと整理してみないと駄目かな。

April 2011

April 29 Friday 2011

この震災で誰を助けて誰を見捨てるべきか

ちょっとウヤムヤにされているんじゃないか、と気になっていることがあります。ええと、まず確認なんですが今回の震災に関して多額の義捐金が海外などからも寄せられたり等々ということがあったのは、こういう人↓を助けたいと心動かされた人が多かったからですよね?

>> 瓦礫の中で号泣する女の子

私は被災地に乗り込んだわけではないので伝聞でしか現地の様子を知りません。ですが想像を絶する状態であることは間違いないようです。押す波と引く波とでメチャクチャに建物が破壊されてグチャグチャに混ぜられた上でいずこともわからない場所に運び去られたため、自分の家があった場所に行こうとしても位置がわからなくなったりするそうです。地上に目印となる建物が何もなくなっているせいですね。そして何か思い出の品などを探そうとしても、どのあたりに落ちているかの見当さえつかないといいます。

また今回特にひどい被害にあった地域の多くは白砂青松のとても美しい海岸を持っていました。内陸部とは違って東北地方であっても暖流の影響などで冬でも比較的気温が高く雪も少なく過ごしやすいところです。水産資源が豊富で海産物がとてもおいしい。良いネタに恵まれない札幌在住の私などは出された刺身の様子が見知ったものとあまりに違うので「コレハナントイウリョウリデスカ?」と尋ねて笑われる経験をしたほどです(←ウソみたいですが実話です:笑?)。

そんな土地がメチャメチャに破壊されて失われたことの喪失感は、現地の人間じゃない私でさえ堪え難いものがあります。上であげた特徴とはちょっと外れる感じのある土地でも、たとえば製鉄の町である釜石などにも印象深い特徴がありました。(主に良い意味で)非常に古びていて、なにか平成時代における昭和の隠れ里のような雰囲気があったんです。今回この町で児童生徒たちがほぼ全員、極めて危機的状況にあったのにもかかわらず的確な判断力と行動で避難して生き延びたことも宜なるかなと思いました。

こういう土地に暮らしていた人達を助けたい、と切に思います。困難ではあっても以前の姿に戻って欲しい、そう思います。けれども義捐金の分配額がもっとも多いのはこれらの土地じゃないんですね。現在の第一次分配に関して「福島第1原発事故の影響で避難を強いられた世帯には35万円」という項目があるので福島県が最も多くなってしまいます。今後も原発の状況によってはこの金額や分配に締める割合はさらに増えるでしょう。

非常に納得がいかない気持ちがします。

津波被害者への救援活動を原発事故は妨害しました。政府の注意が原発に集中して対策が手薄になっていましたし、海外からの救援隊も被曝を避けるため日本を離れる事例がありました。また被災地で深刻だったガソリン不足に関しても、福島原発周辺が地盤の与党議員が自分の選挙区に(原発事故対策で必要だとかいう理由で)タンクローリーを集めたことによって引き起こされたという話も週刊誌に出ています。利益誘導だったかは別にしてガソリンを原発周辺の自治体に集めたことは事実のようです。

この上、原発事故の保障まで津波被害にあった人達への義捐金で賄う気なのでしょうか?それはいくらなんでも筋が通らないのではないかと思います。「福島第1原発事故の影響で避難を強いられた世帯」へは原発事故を起した当事者が対応すべきで、散々迷惑をかけた上に迷惑をかけられた人宛のお金までくすねるというのはあんまりじゃないでしょうか。またこの避難世帯にはほとんど東電の身内のような人々も多数含まれています。すごくすごく割り切れない気持ちです。

とはいえ私などがピーピーいっても誰も聞く耳を持たないでしょうが、多額の寄付を表明した孫正義氏などはどう考えているんでしょうか。彼の寄付が商売敵 au の大株主である東電の尻拭いに使われることを良しとするのか意見をきいてみたい気もします。

カンチブレーキの調整

ボルトとナットを締めるにはナットの頭を押さえる工具を掴むために手が一本必要です。そしてナットを回すためにも一本必要です。ブレーキの調整をするにはシューの位置を決めて固定するのにも手が必要です。残念ながら人間には手がデフォルトでは2本しかないので色々困ります。

こういうとき子どもとかがいれば手伝わせつつ色々知識を伝授でき、なおかつ親子の交流も深めることができていいんだろうなあ...とボンヤリ思いました。まあ大体そういう場合にはこちらの思惑通りにいかずに修羅場になるんでしょうけど。

ちなみにブレーキの調整は大失敗と思いきやなんとかうまくいったようです。鳴きは止まりました。ホイールにシューとの間に開けたい間隔と同じ厚みのプラ板を貼付けて、シューを微妙な中空で保持しなくてもいいような KUFU は一応してみました。それでもきちんとした調整はできず不揃いで不格好な感じになったのですけど、もともとそんなに精度を求められるような装置でもなかったんですね...。

ポンコツ更新

ポンコツ光画研究室更新しました。第3回と第4回です。

April 23 Saturday 2011

ポンコツ光画研究室

こちらでポツポツ更新していきます。

■Sucker Punch

ぼんやり YouTube を眺めていたら変なのが目に留まって「?」と思っていたら『エンジェルウォーズ』とかいう邦題で日本でも公開されているんですね。

>> Sucker Punch 予告編

押井守の実写映画ネタを「オレならこうする!」といって一本にまとめ直したような印象を受けました(もちろんそんなわけはありませんが:笑)。『紅い眼鏡』『アヴァロン』『アサルトガールズ』『真・女立喰師列伝』etc...。いずれも良さそうになる可能性はあったのに非常に残念で可哀想な結果になっててしまったものたちばかりなので、これを機会に成仏してくれればいいのにな、と思います。

監督はザック・スナイダーだそうです。この人の作風については『300』『ウォッチメン』という作品を並べてもピンとはきてませんでしたが、『Sucker Punch』を加えてみると以前の作品にも何やら日本文化的な要素が見え隠れしていたような気もしないでもありません。具体的には『ウォッチメン』でロールシャッハが惨死させられるに至る一連の成り行きなどが「男には負けるために戦わなければならないときがある」を体現しているように見えなくもないかな、等々。ちなみにこれは「負けるとわかっていても戦わなければ...」とは違うという点を強調しておきます。勝つ気があるなら負けないように準備するか別の機会に戦えばいいだろバカか、と言いたくなるので。

必敗者としてのロールシャッハ

「負けるために戦わなければならない」という状況一般について少しだけ説明しておきますと、これはたとえば多くの人にとって利益となるが倫理的には若干問題があるというケースなどで生じます。倫理的な問題の方を利益よりも重視する人間の側が勝利してしまうと社会はその対価として大変な迷惑を被ります。一方で倫理的な問題点を些末な事だといって社会の総意として踏みにじってしまうと、その社会における「正義」は決定的に毀損されてしまうので、いずれ社会を維持できなくなっていく可能性があります。どちらを選んでも良い結果は得られません。

このアポリアを回避するには、誰かが貧乏くじを引いて必ず負けるよう望まれる側に立ち、そのことは自覚しつつも本気で大多数に対して異議を唱えて戦いを挑み、予定通り破れ去っていく...という手続きを踏む以外にありません。これによってのみ社会の利益と正義は共に守られます。この中で重要な役割(=生け贄、人柱)を果たす「必敗者」について日本文化では割と認知されているのかな、という気がしています。あくまで気のせいかもしれませんが。

>> Rorschachの最期

そしてロールシャッハはまさしくこの必敗者として描かれていたように見えます。倫理上(世界人類全体からみると極瑣末な人数が犠牲になったという)問題はあるけれど結果的に世界平和を成し遂げた謀略があって、人類全体の利益の点からは秘密のままにしておく方が良いことが誰にでもわかる状況にある。しかしそれを絶対に許さず暴露すると主張して惨殺される道を選び取った。なぜ彼がそんなことをしたのか、はっきりとはわからなくても心に「正義」がある人ならなんとなくは感じるものがあるんじゃないかと思います。日本文化圏で育った人ならよりはっきり感知できるんじゃないかしらん。

というかですね、なぜ彼がそうしなければいけなかったのか「全くわけがわからない」という人がいたら、その人との付き合いは考え直した方がいいんじゃないかと思いますよ(笑?)。

Panic Switch

一応『Sucker Punch』の話に戻します。予告編の後半に流れているBGMは Silversun Pickups の Panic Switch という曲です。この映画のための曲というわけではないようで、ググると YouTube に bass パートだけの素人投稿映像も数本ありました。最初にこの曲をパッと聴いたときに「ん?」と思った通り、大変複雑の反対(←!)なようです。

>> 演奏例

↑途中までの演奏ですが、この人のは聴いていて気持ち悪くはなりませんでした。全部を聴いたわけではないのですが他の人のはなんかリズムがおかしいというか聴いていると三半規管が狂いそうになりました。一見簡単そうに見えてもそうではないというあたり、肝に銘じておく必要がありそうです。

そんな感じで。

April 07 Thursday 2011

震災から明日で4週間

北海道新聞4月7日付けの記事によると札幌でも福島第一原発由来の放射性物質が検出されたようです。

学内の原子力や放射性物質研究者らでつくる北大原子力系研究グループは6日、札幌市内の同大構内に設置している装置で4日昼から24時間にわたり集めた大気中のちりから、福島第1原発事故に由来するとみられるセシウム134などの放射性物質をごく微量検出したと公表した。

記事中で元の情報が載っていると紹介されていた北大工学部における福島原発事故後の放射線モニタリングサイトを確認してみたのですが、どこに出ているのか今ひとつわかりませんでした。文系の悲しさ故か、それとも理系のコミュ障(←!)によるものでしょうか。

しかし4日にはもう届いてたんですね。ドイツあたりの予想をもとに5日以降に到達するという話は聞いていたので覚悟はしていたのですが、ちょっと早まったのか。それともこれは単なる先遣部隊で今頃は本隊(←?)が到達して大きな値を出してるんですかね。ガクブルです。

PDF自粛とtwitter推奨

以前「名簿にPDFを使うのはいかがなものか?」と書きましたが3月30日付けで「東北地方太平洋沖地震に係る情報提供のデータ形式について」というのを経済産業省が出してきたようです。ただこれは経団連向けの「御連絡」らしいのですけど、どういうことなんでしょうね。経団連?

「PDFじゃなくてHTMLやCSV形式で提供しなさいよ」という趣旨は良いと思うのですがこれを出した直接の動機は被災者名簿とかに関することではなくて、東電の「計画停電」告知ファイルがPDFだったりしたことへの改善要求とかかもしれません。列車運行や工場の可動に関して自動調整したりする都合かな?よくわかりませんが。

あと4月5日のNHKニュースでは下記のようなことも伝えられています。

今回の震災で一部の自治体などが情報発信の手段として活用した「ツイッター」などのインターネットのサービスについて、経済産業省や総務省は、さらに多くの公的機関が活用するための指針をまとめ、5日、公表しました。

奥州市役所のtwitterによる案内とかよかったですからね。でも非常時以外だと色々問題もありそうなんですけど、どうしたものやら。

ところで、この「指針」とやらはどこに出ているのか?と、総務省のサイトをみたんですけど3秒(←!)眺めただけでは全然わかんなかったです。一応検索もしたんですけどね。経済産業省のサイトからは2秒で発見できました。報道発表の4月5日「国、地方(略)」にはPDF形式ファイルのみです。なので、そこから→公共機関ソーシャルメディアポータル国、地方公共団体(中略)についての指針と辿ると非PDFで読めます。留意点のところに「個々のご意見への対応は、原則、行ないません」と言えと書いてありますね。ガンガン苦情を受けて荒れまくりとかにならない対策は確かに必要かもしれません。

監督省庁と責任の所在

総務省は地方行政とかIT情報ナントカの担当で、経済産業省は原発とか経団連(?)とかの担当なんですね。今まで特に気にしたことはありませんでしたけど。でもこれで1500億円にものぼる日本赤十字宛の義援金がいまだに各地方自治体に分配ができていない問題で、なぜ片山総務大臣がシャシャってきているのか、などの理由がわかりました。ということは支援物資の分配もここの管轄なんでしょうか?だとしたらマジ許せませんけど。私の知っている範囲では物資不足は個人的交遊関係からの直接支援で賄われていて、行政からの助けはほとんどゼロみたいです。現在は少しは改善されているんですかね。

被災地で活躍している国レベルからの支援は警察、消防、そして自衛隊の人達の労働力だけで、他は本当にダメダメっぽいです。マスコミも地方局は役にたっているようですし、市役所・町役場レベルの人達はしっかり働いて住民の力になってるようなんですけど。

例えば宮古市長が毎日防災無線を使って市民を励ましているのとか、すばらしい取り組みだと思います。「今日はコレコレをやりました、明日はコレコレをやります!」と毎日言っているようです。昨日より今日が、今日より明日がもっとよくなる!というメッセージを発することは今はとても大切なんでしょう。それを具体的な根拠を出して伝えているのが良いです。ボンヤリしたことを言われても誰も「希望」なんて持てません。

それと原発関連で名前の出て来る「原子力安全・保安院」なんかの親玉は経済産業省なんですね。今回の原発事故の直接の責任官庁はここなのか。良心をもったお役人様が割とたくさんいてくれるといいけれど。贅沢はいいませんがせめて厚生省よりは多めにいて欲しいです。

非論理的な人達

バルカン人スポックの口癖に「非論理的(Captain, that's illogical.)」というのがあって、これは私の口癖にもなっています。彼は時に非論理的でエモーショナルなこともするのですが、そういう時は大抵利他的行為だったりします。自己保身とかのために非論理的になったりはしないし、論理的な判断であるからというのを免罪符にして他人に犠牲を強いるようなこともないのです。どちらかといえば自分が犠牲になって人を救うような行動をとるときに「これは論理的な判断だ」と宣言してサラっとやってしまう潔さがあります。かっこいい&すばらしい。

ちなみに「非論理的だ」と言われて嗜められるカークやマッコイも感情的ではあるけれど、そんなに嫌な人間でもありません。これは別に自己保身のために感情的になったりはしないからですね。そういう卑しさは全然ない、というのが大事な点です。

一方、自分に都合が良いかどうかだけで物事を判断し、なんでも捩じ曲げてしまう人もいます。しかもそれを自覚しているのかいないのかさえ外からみていると分からない。Basely illogical! と言いたくなってしまう事例があります。

・・・と書いて、原発事故ニュース関連を中心に具体例を並べてみようかと思ったのですが面倒だし嫌な気持ちになるだけなので以下省略(笑?)。

プルト君とプルトくん

あ、でも折角なので(←?)「プルト君」を御紹介します。

>> 頼れる仲間プルト君――プルトニウム物語

このプルト君は西原理恵子さんが「サイバラ水産イカ夜釣り編」でヤケクソなキャラクター「プルトニウムのプルトくん」にギャグで言わせたのとほぼ同じ発言をしています。

プルトくん曰く「りえこおねいさん、プルトニウムは原液で毎日一斗缶いっぱい飲んでも多分大丈夫なんだよ」だそうな。これに対してプルト君は「ジョッキで飲み込む少年→無数の空きジョッキがテーブルに並んでお腹の膨らんだ少年→トイレから出て来てスッキリした少年」を映しながら「(プルトニウムは)飲み込まれて胃や腸に入ってもほとんどが排泄されてカラダの外に出てしまいます」とナレーションします。西原さんのはギャグですがプルト君はマジなのがホントに怖い。ていうか「ほとんど」だといくらか残ってしまうわけで、それはマズイよね?α線とか内部被曝的に。

そんな感じで。

March 2011

March 29 Tuesday 2011

震災から2.5週間あまり

依然被災地では深刻な燃料不足が続いているようです。それと牛乳不足も。「風が吹けば桶屋が...」もあながちデタラメな話ではないのかもしれません。原因についてはどちらも色々あって複合的なようです。福島県・東京都・岩手県でそれぞれ牛乳不足が起こっていますが、それぞれ放射能のせいで出荷出来ないからだったり、燃料や電力の不足で工場が動かないからだったり、他所に優先的に出荷したせいだったり色々ですね。厳密な因果関係はなくても微妙な相関はありそうな。

燃料の方はきっともっと複雑なのでしょう。流通とかを専門に研究している人なんかはこういう現象をどう説明してくれるんでしょうか。そして、そういう人達の知見を生かしてこういう問題をスマートに解決する...ような政治家や行政官が現れることはあるんでしょうかね。絶対ムリな気がしますけど。

映画『選挙』をみて以前思ったこと

政治家云々といえば映画『選挙』(想田和弘監督)をみたりして以前痛切に思ったことというか、ぞっとしたことがあります。それは「選挙に勝った人は全員自分の名前を連呼してきた人だ」ということです。バカバカしい迷惑行為なんですけど、得票上はすごく効果があるそうです。なので「名前の連呼」という、本来政治家を(その人がどんな政策を考えているのかを踏まえて)吟味する際に全く意味をなさない行為を、真っ当にも「無意味で人様の迷惑なのでやりません!」と拒否した候補者は誰一人代議士になっていないんですね。

代議士は全員、自分が当選するという利益のために無意味で馬鹿馬鹿しい行為を受け入れて実践してしまった人達だ...つまり、彼らは自己の利益になると思えば理念も何もなくどんなことでもする人達だということです。そういう人達だけを選別して代議士にしているということで、これは本当に恐ろしいことだと思うのですけれど。

なにせ例外無く全員がそうなのですから、いざというとき(たとえば歴史上類をみない大地震+大津波で数万人が死亡+原子炉が制御不能+大停電...みたいな、漫画や映画でしか見た事がないような大災害)が来ても自分を犠牲にしてでも信念を貫き、共同体を救う選択ができる人が誰もいないということです。なんだか本当にもう「おしまい」なのかもなあ...と暗い気持ちになります。

御用学者

それと気になるのが「御用学者」呼ばわりされている原子力関連の専門家たちです。生来のウソツキなわけでも専門分野について無知なわけでもないのでしょうが、言っていることに対して現実が悉く悪い方にハズレていますね。もし彼らが本当に偏りがなく分析しているなら、良い方にも悪い方にもハズレるはずなので、これは偏向があるとみて間違いないでしょう。

そういえば最近「御用学者」についての話で水俣病の話を引き合いに出しているのを見ました。アレも熊本大学医学部が原因をメチル水銀だと早期に主張していたにも関わらず御用学者のみなさんが「有毒アミン説」「腐敗アミン説」なんかを出して抵抗したため断定まで時間がかかって多くの被害者を出してますね。というか被害者と加害企業の争いが半世紀も続いていて未だに解決されていないことに驚きます。今回の原発の件も相当ひどいことになりそうです。東京電力という会社の規模の大きさ、政治力の強さ、放射性物質がバラまかれる範囲の広さ、放射能汚染の深刻さ、風評被害が日本全土に及ぶこと等々、考えると目眩がしてきます。

それにしても...と思います。水俣病を引き起こしたチッソの社長だった江頭豊は後に会長となり98歳まで生きて、孫は皇族となり葬式には皇太子も参列するという「勝ち組」さんとしての幸せな一生を終えています。文芸批評家の江藤淳(本名:江頭淳夫)は甥だそうですけど、妻に暴力をふるいつつ依存していたような人で、「武士が敵のことも弔うなどというのは嘘だ説」なんかを書いていたくせに、自身の出自を資料も根拠もなく「佐賀藩士だった」などと言っていたようで、余談ですけどこれもなんだかなあ、です。

悪即斬...とはいかんもんですな。いや、悪が悪のまま蔓延るのはしかたないとしても、自身が悪であることぐらいは自覚して受け入れろよ、と思うんですよ。それが邪悪で下衆な人間のせめてもの嗜みだろ、と。

小西甚一

最近になって知ったのですが、非常に興味深いです。小西甚一の『古文研究法』を買ったと知人から聞いて「は?どんぱんかねどぶ!(←どんな判断だよ金をドブに捨てる気か!)」などと「古文」という語に対する脊髄反射で言ってしまいましたが、大変すばらしいもののようです。なんで今まで名前を聞いたことすらなかったんだろう?やはり「古文」とか「古典」とかいう語へのアレルギー(というよりはそういうものを専門にしている研究者の多くに見られる性質に対する嫌悪)があったんでしょうか。偏見は実によろしくない、と反省しました。

中身についてはまたの機会に...という感じなのですが(←!)それにしてもこの本が(改訂版の1965年から数えてさえ)半世紀近くに渡って重版されて(100刷オーバー)多くの人達に読み継がれてきたという事実は、世の中捨てたもんじゃないな...という気にさせてくれます。

そんな感じで。

March 20 Sunday 2011

震災から1週間あまり

先週金曜日の大震災から1週間あまりが過ぎました。札幌での生活では「クスリのツルハ」のカロリーメイトとティッシュ&トイレットペーパー売り場で「お1人様××個まで」という張り紙を見た以外特に変化はありません。その売り場でも別段品薄になっている雰囲気もありませんでした。大根が値上がりしてましたけど震災との因果関係はわかりません。

などと暢気なことを書いてみましたが今回の震災では通信途絶等々により身内の安否がわからず、かなり焦り苛つきました。震災から今日までの数日間はあっという間に過ぎた感があります。色々なことが手につかず放ったままになっていますので、これから挽回しないといけません。

そんなわけでこれから気持ちを切り替えていくのですが、こういうときには一旦ここまでの自身の行動や思考を振り返ってアレコレと反省&整理しておくのが良さげです。なのでちょっとそういうことについてメモしておきます。

情報入手のあれこれ

まず通信途絶についてですが、地震のあとの津波で被災地では電柱やら鉄塔やら中継機などが根こそぎなぎ倒されたことで固定電話も携帯電話もネット回線もすべて途絶してしまっていたようです。被災した身内の話では地震の直後は大丈夫だったが津波(「射流」というタイプらしい)の到来以降は駄目になったということでした。また津波の被害を受けなかった土地でも震度7という桁違いの揺れのせいで家屋内の光ケーブルが引きちぎれて断線してしまうということもあったようです。従来の電話線やEthernetケーブルよりも強度的に弱いのでしょうか?

そんな中、最初に復旧したのは willcom でした。3月11日17時15分の記録が残っています。地震発生が14時46分で直後は不通でしたが2時間半後には通話できていたということです(たぶん職場近辺の基地局にはUPSがなく自宅近辺のにはあった、ということでしょう)。一方 au の携帯電話には繋がらず、地震直後に発信されたメールが確認できたものの津波の後どうなったのかが全くわからなくて不安が募りました。その上折角繋がっていた willcom も翌12日は再び通信途絶状態になってしまいました。おそらく停電が続いたことによって中継機が動かなくなったのだと思います。

通信手段がなくなって非常に不安でしたがなんとか現地の情報を入手して様子を知ろうと、まずは某巨大掲示板のスレッドを見てみました。残念ながらいつも以上にS/N比がひどく全く役に立ちません。また大手マスメディアの放送も「××市の市街地は水没して壊滅状態です!」などといういたずらに不安を煽る不正確な情報ばかりで気が滅入りました。「市街地」だの「壊滅」だのというボンヤリした言葉で述べられるような情報は真剣に安否が知りたい人達には何の役にもたちません。

あれこれ探してみて実際に役に立ったのは現地の人が発信するブログやtwitterの情報でした。たとえば奥州市では市の職員さんが公式にtwitterで市の被害や復旧の状態や各種案内を発信しており、現地の状態を知る上で非常に参考になりました。停電の復旧が市のどの場所で進んでいるかがわかれば willcom での通話がいつ可能になるのか大体の目処がつきます。全く何もわからないのは不安ですが進捗がわかれば落ち着けます。

しかしすべての自治体でそのような取り組みが可能だったわけではありません。役場そのものが破壊されてしまった場所もたくさんあります。市庁舎が浸水してしまった宮古市では残念ながらtwitterによる公式の情報発信はありませんでしたが、その代わり現地の人で地名などを具体的にあげながら安否確認の問い合わせに答えてあげている人がいました。その方のつぶやきと地図の情報から大まかな津波被害の様子を具体的に知ることができました。「保久田の西と北では津波の被害はない」「小山田に対策本部が設けられていて、そこより南は被害がひどい」等々の情報で非常にハッキリと現地の様子を思い描くことができました。また漁船で沖に脱出して難を逃れた方が多くの写真をブログに載せて現地の状態を伝えてくれているのも発見しました。

これらとは別に昼頃仙台市の親族に関して親から無事を確認したという連絡がありました。あの津波映像を見ていたのでどうかと思っていましたが固定電話も割とはやく復旧していたようです。

一方、夜になっても岩手県の停電は復旧せず気をもんでいましたが12日の22時55分に再び willcom の通話が可能になりました。au や docomo も移動基地局と電源車を被災地に派遣して通話を復帰させたようで現地の安否確認がとれました。ですが「これで一安心」と思ったのもつかの間、15日の昼(12時56分)を最後に willcom が不通になります。現地の公衆電話から連絡を貰い「アンテナは立っているのに通話がつながらない」ということだったので16日に willcom へ問い合わせの電話をしました。中継機の故障かどうか等々そういう技術的なことを受け付ける窓口が機能していないのでなんともできないし、いつできるようになるかもわからないという話でした。

なので大急ぎで別会社の携帯電話を購入するしかないと考えてアレコレ調べていたところ17日の22時56分に通話が可能になりました。その後は一応普通に(よく無音になって途切れたりしますがこれは以前もそうなので:笑?)使えています。

安否情報データベース

現地で被災した人には親戚や友人など色々な繋がりを持つ人間がおり、お互いに現地で被災して連絡が取れなくなっていたり、また遠方から心配していたりします。そうした人達が頼りにするのは現地からの安否情報なのですが、非常に使い勝手が悪いというか折角の労力が無駄になっている現状があると思います。

たとえば google が早期に開設した Person Finder はすばらしい取り組みです。レコードの構成は「名前」「身体の特徴」「自宅住所」「写真」「その他の情報」「この記録の情報源」となっていて、個人情報云々の問題は気になるものの全項目に情報が記入されていれば人違いもなく消息情報を集められるでしょうし、とりあえず「名前」と「この記録の情報源」だけの記入で情報提供を募ることも可能です。検索は名前に限っているようですがデータの第三者による悪用を防ぐ意味でもこれは良い処置だと思います。この辺の設計に関しては彼らは専門家ですから私ごときがアレコレいう立場にはないですね。

ただ、一般にはまだあまりこのサービスが知られていないようであったり、また知ってはいてもまだ有効に使えていない感じはあります。レコードの重複があったり、状況についての記入がなかったりというのが見受けられます。もちろんこの点についても段々周知され日々改良されていっているようで、現在はNHK安否情報も含んでいる(全部でしょうか?)ようですし、またIBC(岩手放送)が作成している安否情報との照合を行なって情報提供作業をしているNPOが協力している様子も見かけました。

ところで上でもちょっと言及したNHK安否情報なのですが、これは震災直後にはラジオなどでの読み上げに終始しており正直「なにやってんだ?」と思っていました。もちろん何もしないよりは何かした方が良いわけですが、安否を確認したい人にそんな方法で届く確率は随分低いのではないでしょうか。データ放送ではリストを受け取れます云々という案内も出ていましたがこれも届きにくい提供方法です。ですので google への情報提供は折角NHKに寄せられた情報を有効活用する意味で非常に有意義なことだと歓迎できます。

NHKと同じくマスコミであるIBCリストにも問題点があると感じました。それは各レコードの内容がバラバラで無秩序なため、安否を知りたい対象本人なのかどうかを確認するのが困難な場合が想定されることです。ですが、ざっくりと市単位で1ページに編集されて名前が並んでいるので検索そのものは簡便なため、その点ではNHKの「読み上げ」やデータ通信限定よりは相当マシです。ただこのやり方で数千、数万という避難者の消息について知らせることが可能なのかどうか、連絡がつけられるようになるのかどうかはかなり疑問です。データの量自体が現時点でも非常に少なく、その増加スピードもかなり遅いのも気になります。

データの量ということでいえば、各地の避難所では避難者のリストをすでに作成しているはずで、その量は膨大な量になっているはずですが、それがネット上で閲覧できるリストにはあまりまだ反映されていません。

これについては googleでは避難所に掲示されている紙に書かれた避難者リストの写真を投稿してもらい、それをボランティアに入力させて Person Finder に取り込むということで対応しているようです。行政機関でもマスコミでもないgoogleが提示する方法としてはベストだと思うのですが、逆に考えれば行政機関などが音頭をとってデータベースを整備すれば良いのではないか?なぜそれをしないのか?という疑問が湧いてきます。

たとえば宮城県では公式ホームページ上に避難者名簿を載せています。避難所のリストを提示して各避難所からそこにいる避難者名簿をリンクするという構成になっています。名簿そのものはPDFファイルになっています。また岩手県でもほぼ同様の仕様となっていて名簿はここでもPDFファイルです。

たぶん平時において「公文書はPDFにする」という取り決めか何かがあるのではないかと推察します。そのこと自体は良いと思うのですが、ここでは検索する側の都合は全く考慮されていないことが問題です。何百とある避難所の一つ一つの名簿を目視で検索して該当人物を探すという手間をなぜ強いるのか、私には理解できません。せめてIBCのようにHTMLファイルにしてあるか、何もせずにテキストファイルで提示してくれていれば、必要情報を抜き出して検索可能なファイルを作成するようなスクリプトも作れますがPDFファイルではそうもいきません。

ちなみに宮城県のレコードは「番号」「氏名」「ふりがな」「性別」「年齢」「住所・連絡先」「備考」という構成になっていました。全部で統一されているのかはわかりません。避難所からFAXで送信されたものをPDF化した感じがあります。PDFである理由はそういう点にあるのかもしれません。

避難者リストをどういう仕様にするか

割と真剣に安否情報を探した(そして今も探している)身としては「こうしたら良いんじゃね?」という提言みたいなものを自分なりに考えたりもします。一応現時点ではこんなのが良いのではないかと思ったのでメモしておきます。

まずレコードの構成ですが4つだけにします。内訳は「氏名」「読み方」「生年月日」「避難所名」です。避難所の係員が聴き取りをして名簿を作成すると思うのですが項目が多いと手間がかかって負担となるし記入の仕方にブレや迷いが生じやすくなります。入力時の負担や混乱を軽減することで早く正確で均質なリストが作成ができます。この点を重視しました。

以下各項目について説明します。

「氏名」と「読み方」と名前に関して二つあるのは誤入力対策です。また後者はローマ字検索等を事後的に可能にするためにも必要です。名前を聞いて漢字などで書き取ったり入力するときには間違いが生じやすく、読み方の聴き取りでも間違いは起こります。なので両方並記すればそうした誤記について検索者側で気づく確率が増します。

同姓同名者が多く本人特定が困難な問題については「生年月日」情報があれば高確率で本人確定が可能と思われます。非常時で混乱していても本人に確認するのであれば生年月日を間違えることはあまり無さそうです。高齢者の場合西暦への換算で間違えるかもしれませんが、それは聴き取りをした係員がその場で元号と西暦の両方を聞いて確認しておけば良いでしょう。

名簿から該当者を発見して連絡をつけるには「避難所名」がわかっていれば十分だと思います。別途避難所への連絡先・連絡方法が記してあれば確実に連絡ができますし、避難所名の入力はコピー&ペーストで済むので入力者の負担もありません。

そしてこの4項目を以下のように並べていきます。

仙台 太郎, センダイ タロウ, 1999.09.09, 船岡生涯学習センター

「氏名」や「読み方」は姓と名の間に空白をいれます。各項目は「,」と空白で区切っています。これは見やすさのためですが、CSV化したいときには「,」と空白を「,」に置き換えれば良いだけですし、区切り記号は何でも構いません。この簡単なレコード記入法で名簿を作るということが徹底されており、行政機関が一つに集約してくれれば、非常に(作成側も検索側も)都合が良いのではないかと思いましたが、どうなんでしょうね。必要であればこのデータをもとにXMLを使ってもう少し複雑な構造をもつレコードも作ることはできます(姓と名を別個の項目にしたり、年齢を項目に加えたり等々)し、私は良いと思うのですが。

とはいえ、お役人上層部を説得出来る気は全然しませんけど。きっと誰がやっても無理なんだろうな(萎)。

February 2011

Feburary 13 Sunday 2011

マラルメの詩

骰子一擲』と邦題がついている詩があります。この手の詩は高校生の頃ぐらいから一時期よく読んでいました。ほとんど何がなんだかわかっていなかったので「読む」というよりは「眺める」「雰囲気を楽しむ」という感じでした。ですがこの「わかっていない」ということに関して言えば、当時ちゃんとわかっていた人がそもそもいたのかどうかが疑わしい気がします。ランボー、マラルメ、ネルヴァル、etc...といったあたりの詩人たちの翻訳はそれはもうひどいものばかりでしたし、解説・評論の類いも無惨だったように記憶しています。今はどうなんでしょうか。当時の水準のままということはないと思うのですけれど。

さて、最近はすっかりこういうものから遠ざかっていたのですが『偶然を飼いならす』を読んでいて期せずして再会しました。この本の最初と最後ではマラルメの『骰子一擲』への言及がなされています。原題は「Un coup de Dés jamais n'abolira le Hasard」で、一部英語に直してググってみると「A blow of Dice will never abolish the Chance」というような感じの文字列が極少数ひっかかってきます。小型の仏語辞典をみますと「un coup de dé(s)」というのは成句で「のるかそるかの仕事、運だめし」とありますが英語圏に「a blow of dice」や「a stroke of dice」という成句はないようです。「hasard」に似た単語で「hazard」が英語にはありますし、意味も仏語と同じく「偶然、危険(不幸な骰子というスペイン語が語源だとかなんとか)」ですのでそのまま使っても良さそうなんですけど、やはり「chance」じゃないと駄目なのでしょうか。

更にもう少し電子辞書やら何やらで調べてみますと「(grand) hazard」という複数の骰子を投げるゲームがあるようです。フランス人もやるのかどうかはよくわかりません。英国には同様のゲームでcrapsというのがあるそうです。またabolish と abolir がどのくらい近い意味を持つのかよくわかりませんが、abolish はもともと「(物理的に?)木っ端みじんに破壊する」というような意味の語だったようです。

以上のような覚束ない知識(?)ですが解釈してみます。マラルメの詩句ですから当然ではあるのですが、この題名にもいくつもの解釈が成り立ちそうです。「運だめし(=サイコロを投げること)は決して偶然を一掃できないだろう」という意味を中心に、様々な解釈可能性が宙吊りになっているようです(無論この中心となる意味も何のことやらはっきりしないのですが)。また、この詩は表記上の構造もそのまま同様の形態をとっています。題名に使われている語句を間隔をあけて最大サイズの大文字で順に散らしていて「UN COUP DE DÉS(p.1単独)」「 JAMAIS(p.2)」「N'ABOLIRA(p.8単独)」「LE HASARD(p.16)」となっているのです。その間を様々な大きさと配置の語句が埋めています。語彙間の関係に傾向はあっても一意には決まらない状態になっています。いずれにせよ「ぼややん」としてるのが象徴主義ですから、こちらも「ぼややん」と受け入れるしかありません。

正面から抗する詩人?

ところで私がこの詩を改めて取り上げたのは、単にハッキングが言及していたからではありません。訳者の重田園江先生が解説でマラルメのことを次のように書いていたのが気になったからです。

こうして、<偶然の飼いならし>が進むにつれ、偶然や自由、未来の予想不可能性が再びクローズアップされてくるというのが、ハッキングの描く歴史である。本書の最初と最後に、<偶然の飼いならし>に正面から抗する詩人マラルメを、本書全体のバランスを壊してまで登場させていることもその証拠と言えよう。(p.333)

マラルメが「偶然の飼いならし」に「正面から抗」している、という部分に違和感を感じました。マラルメたちのやっていたことは、ハッキングが論述した「偶然を飼いならす」こととは違っているというのはわかります。でも別に「抗」してはいないと思うのです。

私の理解では(昔読んだだけですが)彼らは自分たちの詩に「偶然」を敢て積極的に招き入れる工夫をした人々です。奇数句で韻を踏むことで意味の安定を乱したり、薬物で精神状態を普通でない状態にして執筆する等々様々な手法で「偶然」を利用していました。この「偶然」を使うという部分は後に更に極端な形でシュールレアリストに継承されていき「優美な死体 cadavre exquis」「オートマティスム」などの手法も生み出していきます。

重田先生の解説では「偶然の飼いならし」は「社会統制の手段としての統計学」が発達することで「人間を拘束する枷」を強化してしまうこと、とあまり好ましからざるものとして(弊害や副作用の害が大きすぎるものとして)看做されているようです。その意味では確かに飼いならされない「<偶然の宇宙>」の存在を主張しているマラルメは「偶然の飼いならし」に抗しているということにはなるのでしょう。

でも私のような暢気な人間からは、統計学を使って「偶然を飼いならす」こともマラルメのように詩作に「偶然」を取り入れて、いわば「偶然と共生する(戯れる?)」ことも、同種の行為に見えます。おとなしくさせていうことを聞かせる(主従の関係を持ち込んで野生動物を使役したり芸をさせたりして自分だけが利益を得る)か、お互いの領分を守って共に生きる(対等な関係の仲間として相手の状態をあまり変えずに野生動物に接するだけで搾取する関係にない)か、というのは確かに違うといえば違うけれども対象に近づいて良く知らないといけない、という点では同じようなものだったりします。

またハッキングがマラルメ以降のもっと「偶然」を取り入れて「自由」になった実験的な詩の数々ではなく、敢てマラルメの詩をあげているところにも何か意味があるのではなかろうか、という気もします。特にないのかもしれませんけれど。そういえば、非線形だの不確定性原理だの「ラプラスの魔」について書いていた新書か何かにもこの詩の話が取り上げられていたような記憶が薄らあるので、単に定番のネタなだけかもしれません。

Un pensée か Tout Pensée か

ところでハッキングは具体的にはどんな風に言及していたのでしょうか。『偶然を飼いならす』冒頭の言及箇所は以下の通りです。

しかしいったい<偶然>は完全に飼いならされたのだろうか。実は、私の言うところの<偶然の飼いならし>と並行して、純粋に非規則的であるということ、つまり理性の時代において排除されてしまっていた、<偶然>よりももっと荒々しい事柄についての自覚的な概念が現れていたのである。(略)そのもっとも繊細で複層的な表現は、マラルメの詩『さいころの一投は決して偶然を廃絶しない』である。(略)これは、船の難破、計器が全部故障してしまった船乗りのイメージである。最後の頁は天体の描写であり、その中央には「星座」という言葉がある。そしてこの詩は、「いかなる思考もさいころの一投を発する Un pensée émet un coup de dés」、つまりこの詩そのものについて述べた言葉、<偶然を飼いならす>のではなく、超越しようとする言葉で結ばれるのである。(pp.14-15)

私は『偶然を飼いならす』は邦訳版しか持っていないので確認できないのですが、上記引用部分には明らかにおかしい部分があります。「いかなる思考もさいころの一投を発する Un pensée émet un coup de dés」と書いてありますが「Un pensée」を「いかなる思考も」と訳すのは無理でしょう。確認してみると原詩には Tout Pensée émet un Coup de Dés とあります。Un pensée はハッキングの原書での間違いなのか、それとも敢てそう書いたのか、謎が残ります。

「星座」は原詩では UN CONSTELLATION と書いてありました。すぐ上に le Septentrion aussi Nord などとあります。北を指し示す星座を前にしても Tout Pensée émet un Coup de Dés (すべての思考は運だめしを発生させる=偶然の介入を避けられない)というところがポイントなのでしょうか。もしそうだとしても、それがなぜ「偶然」を「超越」することになるのかは説明されていないように見えます。・・・と思ったのですが「超越」は「偶然を飼いならす(=人間を拘束する枷が強化される)」ことに捕われないという意味だったんでしょうか。街の真ん中にいきなりヒグマが現れるみたいな感じで、飼いならされない荒々しい「偶然」が紛れ込んでくるということなのかな?

もう一つの言及箇所も見てみます。

パースは、19世紀を通じて偶然が飼いならされていったやり方を完全に自分のものにした最初の哲学者であった。(略)つまり、盲目の<偶然>が<法則>らしさへと安定化してゆくというパースの宇宙の歴史は、偶然の飼いならしそのものなのだから。(略)パースは三組のものを好み、それらを<第一>、<第二>、<第三>と呼ぶのが常であった。この場合だと、「偶然が<第一>、法則が<第二>、習慣獲得の傾向が<第三>である」。このことは、偶然が統計法則によってなくなってしまうとか、さいころを何度も投げることでヒューム的な心地よい慣習を取り戻すことができる世界が生まれる、などということではない。第一のものは、常に第一なのである。我々が天に輝く星座を観照する時のように永遠の相の下にさいころを投げる場合でも、あるいは我々自身の運命を決する時のように完全に個人的な相の下にさいころを投げる場合でさえも、偶然は五感の隅々に溢れている。パースが、三歳年下のマラルメの詩が掲載された『コスモポリス』1897年号を読んだかどうかは分からない。だがパースも、「さいころの一投は偶然を決して廃絶できない」という[あの船乗りと同じ]考えに達していたのだった。(p.318)

わかったようなわからないような。というよりも、そもそもパースの分類法(失敗した階層クラスター分析みたいなあれを「分類」と呼んでよいのでしょうか?)が私には全く理解できないのでこれは少々お手上げな感じです。ですが、もうしばらく「ぼややん」と考えてみることにします。

さて話は変わるのですが、注を読んでいたら英訳版のタイトルが出ていました。「 Dice Thrown Never Will Annul Chance」だそうです。なんだかなあ。

Feburary 05 Saturday 2011

断捨離

「断捨離」と書いて「だんしゃり」と読むそうです。「ろはす」やら「でぃんくす」やら「えこ」やらの類いだとは思うのですが、妙に気になるコトバです。「片付けるためには捨てるしかない!でも・・・」というのは多くの現代日本人に共有されている悩みですし、私にとってもかなり切実な問題だからでしょうか。

私がモノを捨てられない理由は色々あるのですが、その中でも最も大きな要因は「間違えたくない」ということなのではないかと最近気づきました。これは「損をしたくない」というのにも置き換えられます。思えばいつも結論を先延ばしにして何をするにも怠惰である原因もコレなのかもしれません(「捨てない」のと「使わないで取っておく」「うまくやる確信がないうちは先送りする」のは未来のための留保という点では同義になります)。

後に必要となるモノがせっかく手元にあったのにみすみす捨ててしまうというのは「間違った判断である」わけで、そうなる可能性を回避するには「捨てなければよい」わけですね。「間違い」を避けることを最優先にした場合には「捨てない」という戦略は確実性の点で非常に優れているわけです。

そして、この「捨てない」戦略は、私が文章を書こうとするときの戦略でもありました。とりあえず思い付いたことは全部言っておこう、なんでも言っておいた方が読み手が取り違える可能性を小さくできるはずだ、なぜなら書いてはあるんだから・・・ということになります。「特盛りサービス」をしていたわけです。

ですが通常は「結論をまず先に簡単に述べる」「なぜそういえるのかの概要を簡潔に提示する」というのこそが、わかりやすい話をする際のコツですよね。たくさん書いても読み手は読み飛ばしてしまうか、そもそも読む気を無くすだけだったりするというのが実情です。

「捨てない戦略」は結局どこで間違ってしまっているのかといいますと、「有限」な条件の中で最適解を探さないといけないということを忘れてしまっているところなんだと思います。モノを捨てないで溜め込んでおく場所は「有限」です。必要なときに必要なものを取り出す記憶力も「有限」です。生きていられる時間も「有限」なので、その範囲内で必要になる可能性があるかどうか、あったとしてそのときに必要なものが取っておいてあることの利益と、捨ててしまっていたために被る損害の程度がどの程度であるのか、有限の領域を圧迫するに足るものなのかどうか、というのを考えないと損得の判断はつかないわけです。この条件が全部「無限」であれば「捨てない戦略」一択で正解なんですけど。

また文章に関していえば読み手の読解能力や忍耐力は極めて(笑)「有限」ですし、紙面も大抵は限られています。この場合も条件が「無限」であれば「捨てない戦略」が有効であるのは確かですが、「歴史に残る」ようなものでない限りは期待できません。有限な人々の記憶容量に収めてもらえるためには、まず広く認められなければならず、忘れさられないこと必要で、それには「有限」条件下で最適化されていなくてはいけません。極めて希な偶然(の幸運)に期待する以外では。

上記最適化に際しては「大胆に削って最小限のこと以外語らない」という意識ではまだまだ不充分(いらないモノは捨てる・・・では不充分)なんでしょう。この程度では結局劇的に片付けることはできません。「語る必要があることでも論旨をすっきりさせるためには削ってしまう(いらないモノ以外の中で捨てるモノを仕分ける)」ことが必要なのでしょう。

ある程度は運にまかせ、致命的な失敗だけはなんとか避けるように心がけ、小さい損は気にしない、というあたりの、ボロクソに負けた軍隊の撤退時みたいな戦略こそが大切なのかもしれません。難しいですけどね。

Feburary 02 Wednesday 2011

バグ取りと改修

いつも同じことを書いている気がしますが、やはり遅々として何事も進まず、時間だけが過ぎてしまうことを嘆いてしまいます。もう二月とは。やるべきことは増えていくのに体力や気力はどんどん減退していく・・・のですけど、他の人はこれをどうやって乗り越えているのでしょうか。はやくキンベンになりたい(もう一生無理かもしれませんけど:涙)。

で、作業の進捗状況報告です。雑務用(?)CGIの作成はササッと済ませて研究用CGIスクリプトの作成&公開へと行きたいところなのですが、なかなか辿り着けません。とりあえず今回は rss.xml 作成バグの修正、掲示板の設置等々でお茶を濁しておきます。

掲示板は極簡単なつくりのものをこの日記の「comments」欄にリンクしました。御意見御感想などお気軽にどうぞ。一定量書き込まれると古い書き込みは反映されなくなるのでその旨御了承ください。

ウィーン学派

なんとなくボンヤリとしかイメージしていなかった「ウィーン学派」ですが、「カルナップはウィーン学派」という指摘を介して「例の『真偽値』意味論の連中を一括りにしたラベルがソレか!」ということに思い至りました。つまり私の(説の)天敵のことは「ウィーン学派とその末裔」と呼べば良いようです。略すと「ウ派」でしょうか。

私の興味の観点からウ派を評価すると「『命題』を扱って『語』から『文』へと研究の焦点を移したことは良いが、『命題』は『単文』でしかないので『意味』を考察する上では不充分な単位にすぎないから駄目だ」ということになります。複数の「命題」が寄り集まって構造化されていても「単文」ごとに独立して不変の評価(真か偽か)が可能という前提に立っているのが拙いということです。

こういう(ウ派の)考え方に対しては「還元主義 reductionism」という批判用語がもうすでにあるようです。ただウ派の末裔である生成文法派への批判にこうした用語が使われているのは見た事がないので、あくまで哲学の分野に限ったことなんでしょうか。還元主義の対義語は「全体論 holism」で、この用語は統計学的な考え方とも関係があるようです。

それでは私の主張はこの「全体論」なのか、といえばかなり留保が必要になります。そもそも「還元主義(=論理実証主義 logical positivism)」が提唱されたのは、正しい推論かどうかをどうやって検証すればいいのか知りたい、という要望に答えるためだったはずです。これは逆からいうと非科学的(=デタラメ)な言説をどうやって排除するのか、ということでもあります。「還元主義」は「意味論」においてはあまりに不完全で用をなさないのですが、他分野ではそれなりに有効であったようにも聞いています。この構図において「還元主義」に反対する「全体論」は、せっかく排除した非科学的デタラメ言説たちの復権に力を貸すことになりかねません。つまり「還元主義」とは違ったやり方で(できればもっと効率よく)デタラメな説を排除できる力がなければならないのです。

この鍵は「偶然を飼いならす(「手懐ける」程度の方がイメージには合いますが)科学としての統計学」というところにあるのではないかと思っています。そしていつも言っていることですが、統計学は多くの場合に誤解され誤用されるものなので、この点で注意が必要です。こうした問題をどうやって回避したら良いのか、私にはいまだにわかっていません。そもそも私自身が誤解していない保証なんてないわけですし、特に数学的な部分との兼ね合いでは何かやらかしている気配が濃厚です(笑?)。

一説によれば「還元主義 vs. 全体論」は「個人主義(民主主義)vs. 全体主義」と微妙な相似関係にもあったようです。実践された(されている?)「全体主義」は例外無く非科学なデタラメに基づいたもので、人類に大規模な災厄をもたらしています。ナチやファシストが差別政策の根拠にインチキ統計学を利用して彼らのオカルト的妄想を正当化していたことも忘れてはいけないでしょう。「科学 vs. オカルト」の戦いにおいて、後者に力を貸すのではなく前者の領域を広げて補助することで効率よく後者を排除する力になるような位置取りを心がけないといけないな、と思います。

January 2011

January 24 Monday 2011

徒歩・自転車・クルマ

移動速度の比率は概ね「1:4:10」ではないかという結論に達しつつあります。つまり徒歩で1時間かかる道のりは自転車では15分、クルマなら6分で済むというわけです。逆にクルマで1時間かかる距離は自転車で2時間半、徒歩なら10時間(!)かかってしまうということになります。

1日は24時間しかなく1時間で済む移動に10時間かけていては生活に支障をきたします。ですからできるだけ移動時間は短い方が良いのは確かなのですが、歩いて10分の距離にクルマを使っても駐車場の問題などもあり必ずしも効率が良いとはいえなくなってきます。そういうわけで各移動手段にまつわる諸々の長所短所を勘案すると「片道45分往復1時間半の範囲」が徒歩や自転車を利用する際の目安になるのではないかと考えました。

たとえば徒歩の速度を(信号での停止などを含めたグロスで考えるので遅めにして)4km/hとすると片道3km往復6kmの範囲までなら移動手段として現実的な選択といえるのではないか、ということです。同様にして自転車なら片道12km往復24kmぐらいまでが移動手段として使える範囲ではないかと推察できます。ただ自転車は「運動不足解消のため」という目的に比重をおいて使用している場合が多いと思われますので、もっと長い距離でも利用する意味はあるでしょうし、自転車の性能や乗り手の習熟の度合いによって距離は変わってくると考えられます。ロードバイクのようにスピードが出る自転車を使って乗り手もそこそこの人の場合なら市街地での平均速度でも23km/h程度は出せるでしょうから、片道15km往復30km圏内ならOKということになります。

石鹸シャンプー

今まで「抜け毛」という概念がよくわからないという程の強烈剛毛の持ち主だったので、生まれて初めて髪の毛の衰退を経験しつつあり、猛烈に動揺しています。やはり中年なのに自転車に乗り始めて10kg減量してしまったりしたのが良くなかったのか、とあれこれ原因について思いを巡らせています。ちなみに10kg減量して安定していた体重は「ハンガーノック」を経験してから徐々に上昇に転じ、年明けから5日間で一気に5kg増という大変な事態にいたりました。自慢の視力もかなり落ちてきていて、いつまで裸眼生活が継続できるのか不安な感じもしています。

このように健康上の不安は色々あるのですが、やはり髪の毛は別格です。原因がよくわからないので対処のしようもないのですが、とりあえず簡単にできそうなこととして「石鹸シャンプー&クエン酸リンス」というのをやってみています。「かえって髪によくない」という説もあるようなのでどうかな、とも思うのですけど。現時点で効果のほどはわかりませんが、石鹸で洗ってキシキシになった髪がクエン酸を溶かしたお湯につけるとツルツルになるのは理科の実験みたいで面白くはあります。

手続き

ロールプレイングゲームのシナリオ設計では最終目的(悪の親玉を倒す)を果たす前にプレイヤーがすべき中間目的のようなものが構造化されて設置してあります。たとえばドラクエ3の場合だと最初の方では次の段階へ行くのに必要とされるアイテム1つを取得するためのクエストを1つずつ順次片付けていくような形で一本道のシナリオとなっているのですが、中盤に入って来ると「悪の親玉の居城に行く」ために必要な「不死鳥ラーミア」を甦らせるのに必要な複数のアイテム(オーブ)を色々な場所や方法で取得しないといけなくなります。プレイヤーは何をどういう手順で行なえば良いのか自分で考えなければなりません。当然試行錯誤の無駄も増えます。ドラクエ3の場合は一旦この過程を終えたあと更に同じような複数アイテムの収拾を「真の親玉の居城に行く」ためにしなければいけなかったりするのですが、こうした作業の全体は、端的にいえば最終目的への到達に対する遅延行為に他なりません。最終目的の達成までにスキップできない手続きをたくさん挟んで時間稼ぎというか邪魔をしているわけです。

ゲームの場合はわざとやっているわけですし、この到達を妨げる煩雑な手続き部分を楽しむ娯楽なのでそれはそれでかまわないのですが、それでも面白いゲームかどうかは煩雑さの匙加減にあるようではあります。手続きは少なすぎても多すぎてもいけないし、手続きの全体像が見えすぎても見えなすぎてもいけないようです。「程よい負荷があって、見えている範囲が程よく狭い」と一番やる気が継続しやすいということで、これはゲームに限らず何に関しても言えることではないでしょうか。

ドラクエ3では複数アイテムの取得で無駄な行動をしていた場合でも、それによって(敵とたくさん闘うので)プレイヤーの能力値が上がっていき、アイテムの探索が楽になっていくという仕組みになっていました。アイテムの探索と取得という手続きが煩雑すぎると感じてやる気を失ったプレイヤーでも暇つぶし的に(簡単な手続きである)敵との戦闘を繰り返しているだけであっても自然と目的達成が楽になっていき、煩雑な手続きを乗り越えられるようになっていたのです。

翻って現実世界を見てみますと、煩雑な手続きにうんざりして(簡単な手続きである)YouTubeの視聴や某巨大掲示板を眺める作業を延々繰り返していても全く問題解決に近づいていかないという大きな違いがあるようです。なんだかな。

January 09 Sunday 2011

日記CGIもネット上に

せっかくCGI使い放題のレンタルサーバなんだから...ということで日記作成CGIもココに置く事にしました。これで iDisk につないで手動で云々、ということをしなくてよくなります。スクリプトの中身はさほど変わっていないのですが、今後の改良に期待して(?)バージョン「2」ということにしました。

それと「easy_Diary」だけでは名前としてかなり変な気もするので『犬Q日記』というタイトルもつけることにしました。「だから何?」という感じではあるんですけど。

本棚

Amazon.co.jp へのリンク付き書誌データを書評抜きでリストにしてみようと思い立ちました。せっかく簡単にリンクさせられるようなスクリプトを用意したのですが、ISBNコードとAmazonのコードは新ISBNコードの導入による混乱ですっかり一致しなくなってしまったようです。それでもなんとか一致するものもあるので、一旦リンクを作ってから確認作業をしつつ修正していくということになりそうです。現時点では全然出来上がっていませんが、これからボチボチやっていくつもりです。

easy_Diary も移設してしまって維持費はかかるくせに全然役にたっていない mac.com のここらへんで当面は作業してみます。それにしてもこの mac.com は一応パスワードでアクセス制限をしているはずなのに全く下位ディレクトリに制限がかかっていないという謎仕様なんですけど、一体どういうことなんでしょうか。

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