October 2011

October 26 Wednesday 2011

アニメの制作場所

四方田犬彦先生の『漫画原論』に収録されているネタで「?」となる記述があり、以前から気になっていました。

また逆に、『マジンガーZ』のように韓国や北朝鮮で制作されて日本のTVで公開されているアニメでは、街角の建物から一切の漢字が追放されているという、奇妙な現象が生じています。(p.334)

「また逆に」の前には日本の漫画が他国(東南アジアなど)で翻訳出版されるときに、現地の生活習慣に合わせた変更が加えられるという話をしています。大きく原作に変更が加えられた例として韓国版『のたり松太郎』で相撲を朝鮮式シルムとして描き直したことに言及し、反対にアニメでは上記引用のような事例があるとしています。

日本からの漫画輸出時に、現地に合わせた改変が加えられることについては(左右反転の件などを含めて)普通によく知られた話ではないかと思います。韓国に関しては日本文化が正式に解禁されていないという事情もあって(周到に日本文化の痕跡を消す意味での)全面改訂なのかもしれません。また、近年(ごく最近は事情が違うかもしれませんが)アニメなどのクレジットに漢字二文字や三文字の名前が列挙されるのもよく見かけましたので、海外への下請け発注があること自体も驚くことではありませんし、以前からそういうものがあったとしても不思議はありません。ただ、これを「制作」と呼ぶのか?という点で引っかかりは覚えますが。

いずれにせよ、あの『マジンガーZ』を「制作」したのが韓国や北朝鮮(←!)だというのが真実なら衝撃です。一体どういう事情があってそんなことが行なわれたんでしょうか。一応表向きの制作は東映動画ですけど。

・・・ということで、ちょっとググってみました。Wikipediaの記述ですが、どうやらこんな話↓らしいです。

>> アニメ制作の国際分業化

日本が国外に部分的に外注したもっとも早い例では、1968年に制作された第一動画の『妖怪人間ベム』が当てはまる。大手のスタジオとなると、1972年から労働争議に揺れていた東映動画が、1973年に韓国の東紀動画、大元動画、世映動画に作画などの技術指導しながら下請けを出すようになる。同国への発注は人件費が高騰する1980年代後半まで続いた。

東映動画については「『東映アニメーション50年史』東映アニメーション、2006年、pp.48-50」に記載があるのだとか。これなら確かに東映動画制作の『マジンガーZ』(1972年〜1974年)に関して1973年以降の部分で韓国において一部下請け作業がなされた可能性はあります。

しかし「北朝鮮」がどう関係してくるのかは相変わらず謎です。紳士服量販店の衣類が北朝鮮で作られているというような話も聞きますので、私が与り知らないようなルートでのそういう交流もあるのかもしれません。ですが日本人スタッフによる指導などは不可能に思えますし(紳士服の縫製などならともかく)アニメのような特殊技術を先方がどうやって習得するのかについては想像がつきません(現在なら中国経由などで接触が可能かもしれませんが1972年といえば日中国交正常化の年ですし)。

また四方田先生が指摘する「街角の建物から一切の漢字が追放されている」という現象については、日本から海外への輸出が想定されていたためと考えた方が自然ではないでしょうか。(実際に東映動画が輸出を積極的に始めたのは1976年頃らしいですが)『マジンガーZ』は米国をはじめとして世界中に輸出されて(動画サイトで検索すれば確認可能です)人気を博しています。

妖怪人間ベム

ところで『妖怪人間ベム』に関しては以下のような話があるようです(ただ出典というかソースがどういうものなのか不明なのでアレなんですが)。

>> 妖怪人間ベムは韓国製

製作事情がなぞに包まれているアニメ「妖怪(ようかい)人間ベム」や「黄金バット」は、実は韓国で製作した逆輸入作品だった。作画監督は嵐山町の森川信英さん(82)で、65年から単身韓国に4年間渡り、韓国人スタッフを指導して一緒に描いた。(略)派遣先は韓国の民間放送会社・東洋放送の動画製作部。反日感情が渦巻くなか、日本の製作プロダクション・第一動画と共同でアニメ製作に取り組み、紙芝居で知られた黄金バットと、妖怪人間ベムを生み出した。(略)ベムの製作当時から製作費が削られ、人気が芳しくないこともあって東洋放送との共同製作がベム製作後に解消された。「国をあげての支援だと思ったのに。いつの間にか日本側の事情で、自由な判断ができない状況になっていた」。それでも、帰国する際には多くの韓国人スタッフが涙してくれたことが忘れられない。(略)最近では海外スタッフによるアニメ製作も珍しくないが、黄金バットやベムの作画を韓国人が手がけたことは知られていない。再放送を重ねるうちに人気作品になったベムをすべて森川さんの功績として神様扱いするファンもいるという。「私1人じゃ、あれだけの作品はできないよ」

どうも『妖怪人間ベム』に関しては森川信英さんの関与が大きく、その森川さんが韓国スタッフによる貢献を大きく評価しているという構図があるようです。上記引用には「実は韓国で製作した逆輸入作品だった」という表現がありますが、これはこの文の書き手の主張というか理解であって、森川氏自身の主張は「事実上の逆輸入アニメだ」というニュアンスのようです。

もう少しソースがはっきりしていて詳しいものとしては以下のものがありました。

>> 森川信英の世界 講演での話1

当時の基本的な日韓の役割は、日本で、作った脚本や絵コンテを空輸してもらい、韓国側は中割、トレース、色づけ、背景といった一連の仕上げを行います。こうして仕上げたセル画が再び東京に空輸され、日本のスタップにより、修正やチェックされ、撮影が行われたのです。日本側のスタップには、「東映動画」や「TCJ」という動画プロダクションから優秀な人材が集っていました。演出のベテラン、若林忠、生さんを始め、背景チーフには草野和郎さんがして、この方の弟子には今最大のアニメ作家、宮崎駿さんもいました。一方の韓国側は、私の思ったほど進歩せず、やはりアニメの難しさを痛感しました。(略)また国民性の違いから、絵の中にも韓国色が度々、出て描き直させました。例えば、ソウルの空は、濁って汚れているのが普通ですから、日本晴れの色が理解できないのです。「黄金パット」と「妖怪人間ベム」が、どこか他と絵が違う のは、その秘密はここにあったのです。でも無国籍風のあの絵に魅力があったからこそ、今でもこの作品は多くの人の支持に支えられているのですから、何が幸いするか判らないものです。

この引用部分では絵の色合いに「個性」が出たというだけの話のようですが、「ベロ」を担当した16才の現地スタッフのおかげで子どもらしい動きや表情を作ることができた、というような貢献についても言及がありました。また、韓国との提携打ち切りについては全く日本側の事情(アニメではない新番組が始まるとか、キャラクターグッズが売れなかった等々)によるものであったため、非常にその件でも現地スタッフに対する罪悪感を持ってしまったようです。

森川氏自身はそもそも韓国への赴任を決意した動機もその種のものであって、両国の友好関係を促進したいという強い希望を持っていたのだとか。これについては講演の最後でも言及しており、日本の若者が持つ嫌韓感情に憂慮しています。引用した講演は「あの」2002年W杯の前年だそうで、そういう点では色々皮肉な感じもしてしまいますが。

ナウシカがファシスト?

さて、冒頭の四方田先生の話に戻ります。「『マジンガーZ』が韓国や北朝鮮で制作された」というのは非常に誤解を生む紛らわしい表現であり、ほとんど嘘だと断じて良いでしょう。仮に東映動画が下請け作業を外注していたとしても、それは作品の「制作」に係ることではありませんし、単に「製作」的作業に限った話のはずです。それをもってして「制作された」とは普通はいいません。

一方『妖怪人間ベム』のような事情があり、なおかつ「事実上の逆輸入」というのであれば(ちょっと話を盛ってるなあ...とは思いますけど:笑)まだわかります。「逆輸入」なら「日本(の会社)製である」とは認めているわけですし。ただ、それでも「逆輸入」しているのは「セル画」であって、作品そのものじゃないですよね。

ところで、この『漫画原論』にはもう一箇所かなり「?」な記述があります。傍線は引用者がつけました。

図14は宮崎駿の『風の谷のナウシカ』の一カットで、この作品はアニメが有名ですが、今回は漫画版からあえて引用してみました。『北斗の拳』のつぎに『ナウシカ』が来るというと、いったいこいつの頭のなかはどうなっているのだ、ということになりますが、この二作は核戦争後の地上を舞台としているという点で共通しています。もっとも前者が強者生存の論理によって徹底しているとすれば、後者は人間を動植物の生命サイクルのさなかに置き、闘争ではなく共存をモットーとするという生態学的なイデオロギーに裏打ちされており、まったく正反対の印象をあたえます。『ナウシカ』は奇怪な昆虫や植物の一大カタログです。主人公の少女は世界がふたたび戦争の悲惨を体験しないように、美しい山河と故郷のために自己犠牲をはたします。じつはこれは、一歩まちがえるとファシズムが過去に援用したのと同じ修辞的空間を現出させてしまう危険があります。ともあれここで破滅ののちの世界がユートピア的な小国寡民の田園として映像化されたことは、興味深いことです。例外的というべきでしょう。(pp.374-375)

引用部分の記述は「未来社会をどのように描いてきたか」というテーマに関して『風の谷のナウシカ』に言及したものです。なので『北斗の拳』や『ナウシカ』という作品の内容をきちんと取り扱わなくてもしかたがないのかもしれません。つまり四方田先生が碌に言及した作品を読んでいなくても、その結果内容についてトンチンカンなことを平然と書いていても、青筋をたてるようなことではないのかもしれない、とは思わなくもありません。

とはいえ『ナウシカ』をこんな皮相な作品呼ばわりされて黙っているわけにもいかないでしょう。「主人公の少女は世界がふたたび戦争の悲惨を体験しないように、美しい山河と故郷のために自己犠牲をはたします」という要約はあまりにもひどすぎます。

原作漫画には一切そんなシーンはありません。映画版の内容しか知らず、映画版で王蟲の前に立ったナウシカがはねとばされるあたりを、ものすごく適当に雑に見ていた人ならそういう風に解釈するということもあるかもしれません。でも四方田先生は映画版しか知らないわけではないとわざわざ断わっています。

引用部冒頭にある「図14」は漫画版5巻(1991年)冒頭に出て来る「聖都シュワ」を描いたコマです。そして「漫画版からあえて引用した」と書いているということは、漫画版の内容は御存知のはずです。ただ漫画は全7巻(6巻は1993年、7巻は1995年出版)ですので結末は知らなかったかもしれません(『漫画原論』初版は1994年)。

しかし仮にそうであっても不思議です。原作を5巻までであってもまともに読んでいれば傍線部のような要約が可能とする余地はありません。また、ナウシカが「美しい山河と故郷のために自己犠牲をはた」す姿に共感することで(?)読み手の側に(?)「ファシズムが過去に援用したのと同じ修辞的空間を現出させてしまう危険」があるなどとはなりません。

頭がおかしい(たとえば脳内に「利己的ではない主人公=自己犠牲=ファシズム!危険!」みたいな回路ができている)のでなければ、まともに読まずに書いたと考える他ありません。いずれにせよ良いことではないですが。

色々事情があって、言及対象を詳しく読み込む時間がないまま何かを述べなければならないことはよくあることだとは思います。私も目下この技を習得しようと練習中(←?)です。目で見て、手で触って、口に入れて味わう・・・みたいなことをどんな対象にもいちいちやっていては、何一つ有限時間内に成し遂げられませんので。

ただそうであれば、もう少し慎重になってもよかったんじゃないでしょうか。『ナウシカ』がそんな程度の話かどうかは部分的に読んだだけでも感知できるでしょうし、宮崎駿が舐めて良い相手かどうかはわかりそうなものです。

『ナウシカ』はどんな話か

以下ネタバレになりますが『ナウシカ』の内容についてアレコレ書きます。

5巻を読む限り「美しい山河と故郷のために自己犠牲をはた」すのはナウシカではなく、王蟲を含むムシたちです。人工的に手を加えて兵器化された粘菌が制御不能になってそこら中の町や村を飲み込んで際限なく増殖していくのに対して、ムシたちの群れが突っ込んでいきます。この粘菌がだす瘴気は腐海のムシたちすら殺すのですが、大量のムシたちの死体が苗床になることで腐海の植物(?)が繁殖し、粘菌さえも取り込むのです。

そうして人間の手におえなかった粘菌は凶暴性を喪失して腐海の一部になり、かろうじて世界は破滅から救われます。人間の愚かな行為によって破壊されそうになった世界は王蟲たちの「自己犠牲」によって救われますが、この話のどこをどう引っくり返しても「ファシズム」に繋がるような何かは見当たりません。

王蟲のいう たすけを求めている森が粘菌のことだったなんて 蟲や腐海にとっては突然変異体の粘菌すら仲間なんだ 蟲たちは攻撃していたんじゃないんだ 食べようとしていたんだわ 腐海の食草を食べるように 苦しみを食べようとしたんだ それが蟲と木々との愛情なんだ 蟲たちは食べることができないので自分たちを苗床にして森に粘菌をむかえ入れようとしている(p.86)

ナウシカは上記引用部分のように王蟲たちを理解します。そして自分たち人間のことは「呪われた種族」だとみなします。「大地を傷つけ、奪いとり、汚し、焼き尽くすだけのもっとも醜いいきもの」であって王蟲たちはそういう「人間のえぐった傷口をいやそうと」しているのだと考えます。そのうえで自分も王蟲たちと一緒に腐海の一部になろう(=一緒に死のう)とするのですが王蟲は(自身は絶命して苗床となりながらも)彼女を守ってその命を救います。

もしかすると、このように彼女が「特別な存在」であり救世主であるかのように描かれることが、ファシズムの修辞的空間がどーの、という話に繋がるのかもしれません。でも、彼女がそういう人であるということを、様々な立場の人達がそれぞれの都合や欲望から解釈して行動することで色々話が錯綜するように描かれているわけですから、そうした危惧についても作品内世界できちんと自覚的かつ批判的に取り扱われているとみなすべきでしょう。

さて、生き残ったナウシカは色々あって(6巻)図14の聖都シュワの深部にある墓所へと向かいます(7巻)。

腐海の胞子は たったひとつの発芽のために くり返しくり返し降りつもり 無駄な死をかさねます 私の生は 一〇人の兄と姉の死によって 支えられました どんなにみじめな生命であっても 生命はそれ自体の力によって生きています この星では 生命それ自体が奇蹟なのです 世界の再建を計画した者達が あの巨大な粘菌や 王蟲たちの行動をすべて予定していたというのでしょうか ちがう 私の中で何かが ちがうとはげしく叫びます あの黒いものはおそらく再建の核として遺されたのでしょう それ自体が生命への最大の侮蔑と気づかずに(7巻 p.172)

引用部分の「あの黒いもの」というのは「シュワの墓所」のことで、どうやらそこには腐海やムシたちをつくり出した何かがおり、その目的は「世界の再建」であるらしいとナウシカは推理します。腐海を形成する人工の生態系は「世界の再建」を果たすために土の毒を浄化しており、千年前にできた最初の森は浄化を終えて毒のない清浄な土地を出現させているらしいこともわかっています。

しかし人類にとって望ましいことと見える「世界の再建」を計画実行するもの自身が、実は「生命への最大の侮蔑」であるのだと断じています。これについてはナウシカが物語の最後近くで行なう墓所の主と対話を参照しなくてはなりません。

絶望の時代に理想と使命感からお前がつくられたことは疑わない その人達はなぜ気づかなかったのだろう 清浄と汚濁こそ生命だということに 苦しみや悲劇やおろかさは 清浄な世界でもなくなりはしない それは人間の一部だから…… だからこそ苦界にあっても 喜びもかがやきもまたあるのに(p.200)

墓所の主はこのナウシカの発言のあといくつかことばをかわし「お前は危険な闇だ 生命は光だ!!」といいます。「浄化の神」として作られた人工生命はナウシカを汚濁であり希望の敵だと批判します。これに対してナウシカは答えます。

ちがう いのちは 闇の中の またたく光だ!!(p.201)

「光じゃない、またたく光だ!」という主張です。ただ光り続けるのと違って点滅する光においては、そこに進化(というか変化?)が期待できます。一度消えてまた点灯するとき、それは以前と別の何かに変わっている可能性があるわけです。生命の本質とは変わることであり、そのためには個体の死が必要なのだというのでしょう。死を逃れていつまでも生き続けようとすることは、変化を拒否することであって、可能性の否定でもあります。

旧世界の知識を継承するために作られた不死の人工生命とその技術で延命されている墓所に仕える博士たちも、皆この意味で生命への冒涜を行なっているとみなせるのでしょう。

生命は崇高なものであって、それはどんなきっかけで生み出されたものであってもそうだ、という主張もされています。あまりに崇高なものなので、人工だとかそうでないとかは関係ないくらいだ、というカソリックの人が聞いたら憤死しそうな超過激思想です。出発点がどうであれ「変化するもの」という生命の本質さえ備えていればそれは立派に生命として機能して崇高なものとなっていく(可能性を持つ)が、変化を拒否するものは(つまり不死を願うようなものは)「生きるとは何か」を知ることもないみにくい存在に堕すのだ、ということをいっています。

こうした思想の是非はともかく、「戦争の悲惨」がどーのこーの、だとか「ファシズムがー」とかいうレベルの物語ではないことは明らかでしょう。大体「浄化」による「世界の再建」を全否定しているのに「ファシズム」なわけもないでしょうに。真逆といってもいい考え方ですよね。

『ナウシカ』の世界では、一旦文明が大々的に滅びてから千年の間に性懲りも無く二度もカタストロフィを起こしてしまうなど、人類は救い様の無い愚かさで過ちを繰り返しています。しかしこうした過失で自分たちの生息可能域をせばめてはいるものの、少しだけまともになっていっているような描写もあります。『漫画原論』からの引用にあった「ユートピア的な小国寡民の田園」というのは単に「風の谷」のことを指していると思われますが、ほんの少しずつではあってもそういうまともな人々(他にも「森の人」など)を生み出していっているという意味で、希望ある未来を描いているともいえそうです。

諄いようですが「ファシズム」の臭いは全くしませんけど(笑?)。

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