December 2009

December 26 Monday 2009

■ピンカーと Firth

以前英国人の研究者に Firth のことを話したら「誰?知らん」と言われました。「ええっ?」とびっくりしたのですが、もしからしたら昔阪神にいたバース選手の場合と同じことが起こっていたのかもしれません。バース選手本人は気にしていないようでしたが、本来の発音と違いすぎて同じ名前を呼んでいるように聴こえないのだとか。Firth もファースじゃなくてファスに近いのが本来の発音なのかも。

外国人の発音のズレみたいなのは案外母語として使っている人には「?」だったりしますしね。日本語でも外国の人が「ナド」とか言ってて「ナットウ」のことだったりしますし。

それはともかく、前回ネタにしたピンカーの本の中にハッキリは書いてなかったですけど Firth と関連のあるところがあったように思ったので、それについて言及してみます。

ちょっと長いですが引用します。図は抜きですけどたぶんなんとなくわかるのではないかと。

 新語をつくる方法として純粋なオノマトペよりもう少し手頃なのは、「音象徴」--- 音が指示対象の一面を想起させるもの --- だろう。たとえば、大きいものやきめの粗いものには長い単語を、鋭いものやすばやいものには歯切れのいいスタッカート調の単語を、遠い昔や遠く離れた場所で起きたことには口や喉の奥で発音する単語をあてるといったことだ(this と that、near と far、here と there の音の違いを比べてみて欲しい)。これは一種の音響あるいは調音メタファーといえるが、ほとんどの言語にみられる現象だ。また、たとえ造語であっても、人びとが音のパターンに敏感であることは実験で裏づけられている。たとえば図6-3の二つの形の名前が malooma と takata だとしたら、どっちがどっちだと思うだろうか?  ほとんどの人は左が takata で、右が malooma だと答える。ツンツンと尖った形は尖った音を、ふわふわした形はふわふわした音を思い起こさせるからだ。(略)こうした「音象徴」はこれまで何十回も発見され、発見者はそのたびに、「音声と意味の関係は恣意的である」としたフェルディナン・ド・ソシュールの説の反証が得られたと主張してきた。実際には、意味から音声(あるいはその逆)を予測することは不可能であるから、反証とはいえないものの、新しい言葉がつくられるとき、音象徴が一役買っていることは間違いない。(思考する言語〈中〉pp.263-263)

ちなみに malooma は雲みたいなので、takata は星というか爆発というか、まあそんな感じの図形です。 「何十回も発見されて」「ソシュール説の反証」とされてきた、って言ってます。

実は J. R. Firth の代表的な論文「意味の様相 Modes of Meaning」でもこのネタには触れています。オイラは最初 Firth のことをほとんど何も知らないでツラツラ彼の論文集を読んでいるときに、この論文をみつけて、そしてまあ読んだのですけど、なんでこの人がこういうことを書いているのかという動機が全然分からなくて苦労しました。他の論文でソシュール批判をやっているのを読んで「ああ!そういうことか!」とようやくとっかかりを掴んだのを覚えてます。「意味の様相」ではソシュールへの直接の批判はしてないんですけどね。

 音声学のレベルでは、人間一般という観点から体系的な音象徴とか擬音語を実証するような実験例はこれまでまだ一つも作られていない。私は世界の主要なすべての人種に属する多くの言語の話し手たちを相手に自分で実験をし、ケーラーと同様、音と形(それらを触覚で感じたり形に描いたりする感覚)との間にいくらかの相関関係の証拠を見いだした。その実験は二つの図形を線描きし、その一つは円く膨らんだ、「ころころした」形、もう一つは鋭い角ばったジグザグの、角の頂点があらゆる方向に突き出した形、にするということである。それからそれらの形の名称として二つの語が音声と大体の発音どおりの綴り字の形で与えられる、すなわち kikeriki と oombooloo である。ころころした形にふさわしい名称として kikeriki が選ばれたのは、ある人物が、実験に活気を添え、笑いを提供しよう --- 彼はいつもそれをやっていた --- とした場合に限られていた。(ファース言語論集1934~51 p.278)

「ころころした」っていうのは原文では clumpy って書いてます。相関関係云々は evidence of some correlation of sounds with shapes という言い方してます。大雑把に英語にすると因果関係も相関関係もどっちも correlation だったりするんですけど、このあたりなんとかならんもんか。

ざっとピンカーの著作を読んで、ピンカー自身は特にソシュール批判っていうのはしていなかったような気がしないでもないのですが、言語の恣意性みたいなものについてはウォーフ仮説への攻撃という形で執拗にやってたようにも思います。

この「言語の恣意性」説への攻撃っていうのも、オイラは最初のうち「動機」がわからなくて「?」だったのですけど、あまりにもひどくイイカゲンな珍説が跋扈していた(いまもしている?)という事情があって、それへの反発っていうのもかなりあったのかな、という理解を現在はしています。生成文法なんかが出て来た背景にもそれが強い動機としてあったのかな、と。

生成文法の本流(?)ではチョムスキーの最近の論文(といっても2000年代の論文って意味ですけど)なんかでも相変わらずの調子らしいので今でも言語(機能)を一つの体系や規則に基づいて説明することが可能であるという考えに変更はないんだろうなあ、すごいなあ(笑)と呆れます。

ピンカーはどうやらそれとは違う考えかたのようですね。そんでぶつかったりもしているらしい。彼は「概念意味論」というのを出して来て、認知科学の知見を利用した何やら中庸な感じの説を展開しているとか。

どっちが正しいのかの判断は別にして、少なくともピンカーはマンガは読んでる(←たくさん引用されてるので)ようだから、なんというか、用語は適当じゃないですけど、「文学」がちょっとはわかる人なんじゃないかと思えます。チョムスキーは私の知っている限りではそっちのケはゼロですね。

たぶん、ここが分かれ道なんじゃないかな。「文学」がわかる人が言語について考えたときに、ことばから読み取る意味というものが、何か一つのやり方で説明可能だなんて思うはずがないので。

Firth が上であげた音象徴やプロソディーなんかの話をするのも、ソシュール云々というよりは一つの規則ですべてが説明できるという考えかたへの反発だったのだと思います。意味というものが複数の体系や異なった次元の規則や関係から複合的に発生するものだ、という事実を無視するな!というような感じのことがいいたかったんじゃないかな。

これに関係するようなないような話で最近指摘されて「はっ!」と思ったのですけど、日本語の「係り結びの法則」は本居宣長が発見したわけじゃないですか。で、なんで彼はそれに気づけたのか、っていうと「歌論」という枠内で研究していたから、つまり「文学」的な関心でそれを見ていたから、っていうことらしいのですね。

・・・と、なんだか長くなってきたので今日はこのあたりで・・・。

December 21 Monday 2009

■ピンカーと藤田まこと

一応まだ生きてます(笑)。ベースがちょっとだけ弾けるようになり、自転車で石狩浜まで行って帰ってきても翌日筋肉痛にならなくなりました。コケて記憶がとんだあとでMRI検査を受けて、人と違う脳だということもわかったり。色々です。

あとはですね、お菓子を自分で作る様になりました。生キャラメルとかプリンとか。そのせいか知りませんが体重も5キロくらい減りました。ま、人生がひどい時期にあっても全マイナスとは中々いかないものらしい・・・と、考えたりするのは楽天的にすぎるかもしれませんが。

で、こんなことだけ書くのもアレですので、タイトルのことなどユルユル語ってみますか。

ピンカーの『思考する言語(下)』の p.68 にこんな例が出てます。

さらには、相手を貶めるような暴力で脅す方法もある(「ケツの穴から手突っ込んで奥歯ガタガタいわせてやる」という日本語の例や、私がボストンのバス停で耳にした、「おまえの頭をもぎ取って気管に糞たれてやる」というものなど)。

同書の pp.26-27 で日本語の侮辱表現の有無について言及したりもしているのですが、まあ、とにかくこういう侮辱表現があると。この下巻ではこうした侮辱表現がなぜ機能するのか、とか侮辱表現がどう変容してきたのか(宗教的な侮辱表現が機能しなくなると別のタイプに置き換わり云々など)についてなど書いてます。

まあ、それはいいんですけど、「ケツの穴から・・・」というのに私は違和感がありました。ケツの穴だったっけ?っていうか、遠くないかそれ?みたいな。汚いし。

ググってみるとすぐわかるのですが、これはもともと「てなもんや三度笠」で「あんかけの時次郎」役の藤田まことさんが言ってた台詞らしいのです。その場合はやはり「ケツの穴」ではないようです。

耳の穴から手ぇ突っ込んで奥歯ガタガタ言わせたる

これなら確かに理にかなってますね。なんかググってみると確かに「ケツの穴」バージョンも散見できますし、「耳の穴」だと上品すぎるのかもしれませんけど、なんというのか、やはりユダヤ文化式の敢て下品を好むってやつなのでしょうか。この慣用句(?)の選択から日本語云々の前にピンカーがどういう文化に属す人なのかの方がはっきりしてしまうように思えます。

いずれにせよ「俺がこんなに強いのも、あたり前田のクラッカー!」とか財津一郎の「ひじょーにキビシー!」がこの番組初出と知れたのはウンチク好きのオイラには嬉しいところでしたけど。

そんな感じで。

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